もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「人間の絆」(下)を読みました

厳しい寒さが続いています。

豚汁やシチュー、鍋物、湯豆腐など体が温まる献立が

どうしても多くなります。

昨日はおでんでした。🍲

 

人間の絆(下) (新潮文庫)

「人間の絆」(下)(サマセット・モーム 著/金原瑞人 訳)を

読みました。

 

モームが主人公のフィリップに用意したラストは、

私には意外だった。

フィリップも自分で自分に驚いていたが、

クロンショーがペルシア絨毯にかけた謎の答えがこれかと。

 

クロンショーとは、フィリップがパリで絵を学んでいたとき

知りあった。

「人生の意味は何か」と聞くフィリップに、

クロンショーは小さいペルシア絨毯を送ってくる。

「自分で見つけなければ意味がない」と言うのだ。

フィリップが極貧のなかで辿り着いたのはー

人生という縦糸ーどこの水源からともなく湧き出て、どこの海

へともなく滔々と流れる河のようなものーのなかにいても、

意味もなければ重要なものもないと考えれば、好きな横糸を選んで

思い思いの模様を織り上げることができる。

(「人間の絆」(下)106より)

そう思えば、私の人生にもかなりの部分が織られた絨毯があることになる。

そして生きている限り、その模様はまだまだ続いていくのだ。

どんなに恥ずかしく情けない過去も、それなりの模様で残っている。

それだけのことだ。

なんだか重荷がとれたような気がした。

 

下巻では、主人公のフィリップが23歳で医師を目指して

医学校で学び始めたのに、ミルドレッドというワガママ美女に

翻弄されるさまが描かれる。

ミルドレッドに振られても、再会すれば彼女を放っておけない

フィリップには、イライラを通り越してあきれてしまうくらいだ。

でも、そんなフィリップからなぜか目を離せない。

フィリップの中に自分を見てしまうからだ。

フィリップはそれまで愛というのは陶酔で、それにとらわれると

世界が春のようにみえるものだと思っていた。そして、そんな

気の遠くなりそうな幸福感を待ち望んでいた。ところが

待ち受けていたのは幸福感ではなかった。魂の渇き、

痛いほどの渇望、激しい苦しみだ。

(「人間の絆」(上)57より)

 

恋愛だけではない。

フィリップは医学生として患者と関わるなかで、

人間の生と死について考えさせられていく。

ただ患者をみているだけで興味がわいた。頭や手の形、

目の表情や鼻の長さ。診察室のなかで人間の根源的な部分が

驚いて、しばしば日常の仮面を乱暴に脱ぎ捨て、ありのままの

魂をさらすことがある。ときどき、だれに教わるでもなく

身についた冷静さに出会って心から感動することもある。

(「人間の絆」(下)81より)

 

また、少し長いが、この物語を象徴している部分だと思うので

引用しておく。

しかし全体としてみれば、悲劇でもなければ喜劇でもない。

なんともいいようがない。とにかくいろんな要素がからみあって

いて、涙もあれば笑いもあり、喜びもあれば悲しみもある。

退屈なこと、面白いこと、どうでもいいこと。みたままなのだ。

熱い感動、深刻な場面、悲しく滑稽な出来事。つまらないこともあれば、

単純で複雑なこともある。希望もあれば絶望もある。母親の

子どもへの愛もあれば、男の女への愛もある。情欲の病が

重い足取りで部屋を回って、罪のある者もない者も、

頼る者もない妻やあわれな子どもも、みんな一様に犯していく。

酒が男や女をとらえて、いやおうなくその代価を求める。

この部屋では、死がため息をつく一方、恐怖と恥辱にさいなまれた

貧しい少女がやってきて、命を宿していると診断される。

ここには善も悪もない。ただ事実があるだけだ。これが人の生なのだ。

(「人間の絆」(下)81より)

 

クロンショーの死も、画学生のファニー・プライスの死も、

伯父のケアリ牧師の死もみな壮絶で怖いくらいだ。

そんな心が凍る場面と対照的に、美術館で絵を見たり、

ロンドンやパリ、ブライトンでの景色に心躍らせる場面がある。

友との楽しい語らいがある。

 

初めて読んだ作品なので、どうしても筋を追ってしまったが、

細かい部分にはまだまだ読み込む余地が残っているように思う。

とにかく読みやすくて先へ先へと読ませてしまう。

モームさん、やられました!

 

巻末に載っていたモーム自身による序文を読むと、

この作品は“自伝的小説”だとわかる。

自分の経験だけでなく、他人から聞いた話やフィクションを

交えているそうだ。

モーム作品、「月と六ペンス」も購入したので、

近いうちに読みたいと思っている。