もりっちゃんのゆるブログ

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「琥珀の夏」を読みました

琥珀の夏 (文春文庫)

琥珀の夏」(辻村深月 著)を読みました。

辻村作品は何作か読んでいます。もちろんすべてを読んだわけではありませんが、辻村氏の“女子小説”は逸品だと思っています。女子は女の子という意味ではなく、女性の中にある女子部分という意味で、大人になっても老齢になっても残っているもの。愛しいものだけれど、他人を傷つけることも多い、子どものころから持っている特性のようなものです。

 

かつて、カルトだと批判を浴びた<ミライの学校>の敷地跡から、少女の白骨遺体が見つかった。ニュースを知った弁護士の法子は、胸騒ぎを覚える。埋められていたのはミカちゃんではないかーー。

小学生時代に参加した<ミライの学校>の夏合宿で出会ったふたり。法子が最後に参加した夏、ミカは合宿に姿を見せなかった。

30年前の記憶の扉が開くとき、幼い日の友情と罪があふれ出す。

(「琥珀の夏」honto商品紹介より)

 

学校でも家庭でも繰り広げられる“女子あるある”が満載。ため息をついたり、にやりと笑ったり、あるあるに触れた反応は様々だろう。自分の中に潜む女子部分に気づかされて、不穏な気分にもなった。

カルト的な新興宗教自己啓発集団の問題も孕んでいるので、今村夏子氏の「星の子」を思い出したりもした。

moricchan24.hatenablog.com

 

それでも一番考えさせられたのは、親子問題、自分の子どもの子育てや教育の有り方だった。

主人公の法子が娘の藍子の保活(保育所を探す活動)に悩む場面があり、法子も「子育てには当事者にしかわからない矛盾がある」と実感していく。このエピソードによって、物語が重層的になっていると思った。

読み進める間、自分の子育てや教育方法?みたいなものに、後悔や惨めな思いを何度も感じた。でもその後悔や惨めさは、逆に自分を苦しめる。後悔や惨めさの中で育った子どもも、育てた親ー自分も否定することになるから。そんなふうに育てられた子どもはなんなん? 育てていた自分はなんなん? その問いに答えることはできない。

そろそろ子育てしていた自分を許してあげたいと思うが、これがなかなか難しいのだ。

 

タイトルになっている「琥珀」は、こんなふうに描かれている。

それは、<ミライの学校>という組織の中に彼女たちを閉じ込め、時を止めて、思い出を結晶化していたのと同じことだ。琥珀に封じ込められた、昆虫の化石のように。

(「琥珀の夏」より)

子ども時代の忘れられない記憶や思い出が、それぞれの琥珀の中に封じ込められている。きっと誰の胸にも琥珀はある。

法子の琥珀は砕けてしまったけれど、このあときっと新しい琥珀が生まれる。そう思いたい。