「沼地の記憶」(トマス・H・クック 著 /村松潔 著)を読みました。
“記憶五部作”の最後の作品として読むことにしましたが、この「沼地の記憶」は2008年の発表で、他の1990年代の作品と少し間が空いています。
“記憶四部作”プラス1の位置づけのほうがふさわしいかもしれません。
舞台は1954年のアメリカ南部のデルタ地帯(沼地)。当時24歳の高校教師だった「わたし」が地元で起こった悲劇的な事件を回想するという形は、クックの“記憶シリーズ”いつものパターンといえるだろう。
今回も肝心の悲劇がどんな事件だったのか、読み始めてもまったくわからない。
冒頭はこんなふうに始まる。
わたしは不幸にも恵まれた星の下で育ったので、暗闇を見ることも、暗闇のなかに隠れているものを見ることもできなかった。
(「沼地の記憶」より)
この一文で、これからの悲劇を暗示させるのは、毎度ながら見事だと思う。
“わたし”の担当するクラスで、女生徒のシーラが失踪する事件が起こる。同じクラスのエディが、父親が殺人者として逮捕された過去を持つために、その失踪に関わりがあると疑われる。結局シーラはただの家出だった。
“わたし”はエディの境遇を知り、彼の心を父親の犯罪やそれによる差別などから解放しようと、心を砕くのだが・・・
明らかになる悲劇は、予想をはるかに超えるもので、いたたまれない気持ちになった。
印象に残ったシーンがある。
“わたし”が教室で生徒たちに投げかけた質問だ。
授業が終わりに近づいたころ、わたしは用意していた質問を投げかけた。
「どちらのほうが悪いと思うかね?」とわたしは訊いた。「自分で恐ろしいことをする切り裂きジャックのような男か、それとも、イアーゴ(註:シェークスピアの「オセロ」に登場する人物)みたいに、意図的に罪のない人を欺いて、自分では罪を犯さずに人殺しをそそのかす人間か?」
(「沼地の記憶)より)
引用したセリフの中でいうなら、“意図的に罪のない人を欺いて”というところがミソなんだろう。
“記憶シリーズ”は、どれも悲劇を描いていて、読後 暗澹とした気分になることも多い。
しかし、今回巻末にクックへのインタビューが載っており、それを読むと、クックは闇を描くことによって光を描こうとしていることがわかった。
明るいだけの世界にいると、その明るささえ感じられなくなる。夜があってこそ、朝の光があり、星の輝きがある。そんな自然の中では当たり前の光と闇が、人間の心の内にもあるのだと、クックは言いたいのだろうと思う。
クックの作品はこれでひとまず終わります。
次は、この「沼地の記憶」と同時進行で読んでいた作品について書きたいと思います。