もりっちゃんのゆるブログ

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「ローマ人の物語⑬」を読みました その2

また強力な寒波がやってきました。⛄

そしてオミクロンの波も・・・

気がかりではありますが、心配しすぎず

やれることをやって過ごしていきましょう。

 

最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII

ローマ人の物語⑬ 最後の努力」(塩野七生 著)のレビュー、

その2です。

相変わらず長い記事になってしまい、すみません<(_ _)>

 

コンスタンティヌス帝(A.D.306年~337年)

(表紙下の写真)

ディオクレティアヌス帝が退位した後に しいた四頭政の

メンバーの一人、コンスタンティウス・クロルスの

息子にあたる。

父亡きあと、じわりじわりと他のメンバーを退け、

ついに324年唯一人の正帝となった。

 

コンスタンティヌスがおこなったことで知られるのは、3つ。

ひとつは凱旋門だ。

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(フリー写真素材より)

お隣はコロッセオ

ローマ人が「門」でまとめてしまうアーチ型の建築様式は、

ローマ人の発明であるとともに彼らが最も好んだ様式で、

入り口を入る門だけの意味でもなく、勝利者が通る

凱旋門のみを意味していたのでもない。ローマ人にとっては、

良かれと思った場所ならばどこにも建てたい装飾であったのだ。

(「ローマ人の物語⑬」“第二部 コンスタンティヌスの時代”より)

この凱旋門、実はリメイク作品なのだ。

短期で建設しなければならなかったため、この場所にもともと

建っていたハドリアヌス凱旋門を土台に使った。

土台はハドリアヌス帝時代(A.D.117年~138年)。

最上階に並び立つ正面4体、裏面4体の彫像(正面は見えますか?)

トライアヌス帝時代(A.D.98年~117年)のもの。

トライアヌスのフォールムの広場にあった回廊に立っていた

ダキア人の捕虜の像なのだが(コンスタンティヌスには関係ない)、

取り外してくっつけた。

第二階にある円形の浮彫、正面4面、裏面8面は

ハドリアヌス帝時代(A.D.117年~138年)のもの。

これも当時の「門」から取り外してくっつけた。

ハドリアヌス帝の狩りの様子を描いていて、

コンスタンティヌスと全く関係ない。

最上階にある方形の浮彫、正面4面、裏面4面は

マルクス・アウレリウス帝時代(A.D.161年~180年)のもの。

これもマルクス・アウレリウス帝の治世の様子を表しており、

コンスタンティヌスと無関係。

これではあまりにつぎはぎなので、コンスタンティヌス帝時代の

浮彫も入れてある。

第2階の円形浮彫の下の部分である。(ちょっと見にくいかな)

残念ながら、五賢帝時代の造形物に比べて、コンスタンティヌス

時代の造形物は単純化されていて、塩野氏も「稚拙だ」と

言われている。

そんな時代の変化、ローマ帝国の劣化を感じることができる。

 

コンスタンティヌス帝のおこなったこと、2つめは

コンスタンティヌスの都」という意味の

コンスタンティノポリス(今のインスタンブール)を

新都として建設したことだ。

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(フリー写真素材より)

当時はビザンティウムと呼ばれていたが、コンスタンティヌス

自分のための都としてローマからはるか遠いこの地を

選んだ。

そして、ローマには普通にあった神殿のかわりに、

自分が公認したキリスト教の教会をたくさん建てたのである。

 

最後の3つめは、キリスト教を公認したことだ。

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(無料イラストより)

コンスタンティヌス自身はキリスト教徒ではない。

ローマの神々をそれまでの皇帝同様に信じていた。

なのに、もう一人の正帝リキニウスと共同で

A.D.313年にミラノ勅令を発布する。

「今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他の宗教で

あろうと変わりなく、各人は自身が良しとする宗教を信じ、

それに伴う祭儀に参加する完全な自由を認められる。

それがどの神であろうと、その至高の存在が、帝国に住む

人のすべてを恩恵と慈愛によって和解と融和に導いてくれる

ことを願いつつ」

(「ローマ人の物語⑬」“第二部 コンスタンティヌスの時代”より)

立派な信教の自由を謳った内容だと思うが、これはあくまでも

建て前だったようである。

コンスタンティヌスは皇帝領に教会を建てたり、皇帝財産を

教会へ寄附したり、聖職者には他の公職(軍務も含めて)を免除

したり、キリスト教をとことん振興したのだ。

困窮したローマ人が、信仰よりも利益を求めて入信することも

あったほどだった。

 

新都コンスタンティノポリス元老院も、「元老院」とは

呼ばれはしても、内実はまったくの別物だった。皇帝

コンスタンティヌスの任命した、実権をもたない名誉職

でしかなくなったのだ。

(「ローマ人の物語⑬」“第二部 コンスタンティヌスの時代”より)

ローマ帝国元老院システムも、

 

もはやローマ帝国の安全保障の最高の責任者である

ローマ皇帝は、帝国の国境線で敵の襲来を絶対に阻止する

という、元首政時代の皇帝たちによって確立された安全保障

システムを放棄したということであった。言い換えれば、

国境線は破られても、侵入してきた敵はその後で、皇帝

率いる軍勢によって撃破する、という安全保障の考えである。

(「ローマ人の物語⑬」“第二部 コンスタンティヌスの時代”より)

防衛をどう考えるかは、住民共同体としての国家をどう

考えるかと、結局は同じことになる。なぜなら防衛とは、

個人の努力では限界があるのを国家が代わって責任をもつ

事柄の第一であるからだ。

(「ローマ人の物語⑬」“第二部 コンスタンティヌスの時代”より)

ローマ帝国の軍隊と安全保障システムも、

有名無実化してしまった。

 

誰の言葉か忘れたが、こんなことを言った人がいた。

「ローマ人は三度、世界を支配した。初めは軍団によって。

次いでは法律によって。そして最後はキリスト教によって」

(「ローマ人の物語⑬」“第三部 コンスタンティヌスキリスト教”より)

この言葉は、ドイツの法学者 ルドルフ・フォン・イエーリングの

言葉だそうだ。

調べると、塩野氏と少し順番が違うようだ。

初めは武力(これは同じ)、次はキリスト教、最後がローマ法、

の順番で紹介されていた。

まあ法学者の言葉だから、ローマ法を強調したかったのかも

しれない。

逆に、塩野氏はローマの歴史の順番に従ってのことだろうと

思う。

確かに、以後キリスト教によってローマ帝国は支配されていく。

しかし、そのローマはもはやローマではなくなっていたのだった。

 

第13巻は以下の文章で終わっている。

パクス・ロマーナ」(註:ローマの平和)は、再び

もどってはこなかったのである。ゆえに、「これほどまでにして、

ローマ帝国は生き延びねばならなかったのか」とは、

ローマの誕生から死までの歴史を学び知る人の多くの胸中に、

自然にわきあがってくる問いでもあるのである。

しかも、その後に訪れる中世が、どのような時代になったかを

しればなおのこと。

(「ローマ人の物語⑬」“第三部 コンスタンティヌスキリスト教”より)

私も塩野氏と同じ思いだ。

でもここまで来たのだから最後まで見届けようと思う。

キリスト教はこのあとローマの国教になり、ヨーロッパは

キリスト教世界になっていくのだ。

 

次は第14巻。残り2冊となりました。