もりっちゃんのゆるブログ

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「ローマ人の物語⑬」を読みました その1

もう節分のお豆が売られていたり、恵方巻の予約のチラシを

見かけます。

なかなかコロナの鬼は退散してくれませんね~

 

最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII

ローマ人の物語⑬ 最後の努力」(塩野七生 著)を読みました。

 

全15巻の第13巻まで きました。

以前も引用しましたが、再び私と息子の世界史の教科書から

引用したいと思います。

私のほうはすごくあっさり。 ↓

3世紀末にディオクレティアヌス帝が天下を平定して

から共和政の形式はほとんど失われたので、

これ以後を専制君主時代という。

(「詳説 世界史」(山川出版社・昭和54年発行)より)

息子のほうはもちょっと詳しい。 ↓

「3世紀の危機」にみまわれた地中海世界

安定をもたらしたのは、284年に即位した

ディオクレティアヌス帝であった。

(「世界史B」(東京書籍・平成21年発行)より)

 

ディオクレティアヌス帝(A.D.284年~305年)

(表紙の上の写真)

前巻(第12巻・迷走する帝国)で、何度も皇帝が入れ替わり、

不安定極まりない状態だったローマを、

落ち着かせるためには、強い権力が必要だと

ディオクレティアヌスは思ったよう。

ディオクレティアヌスが混乱を平定できた理由はいくつか

あるようだ。

自分の担当分野に他者が干渉するのを嫌う人が少なくないが、

このタイプではなかったのである。「他者に任せる」が、

皇帝ディオクレティアヌスにとっての基本戦術になっていく。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

自らの限界を見極める能力はあり、またそれに基づいて

方針を立てる能力はあっても、それを時を無駄に

することなく実行に移すには、いさぎよさ、としてもよい

姿勢が求められる。ディオクレティアヌスは、未練をもつ

ことの少ない男でもあった。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

そういうタイプのリーダーだったのですね。

そのディオクレティアヌス帝が行ったのは、まず二頭政である。

ローマ帝国を東方と西方に分け、自分は東方を担当し、

友人のマクシミアヌスに西方を担当させた。

そして、9年後それぞれ副帝を任命し、

東方正帝ディオクレティアヌス、東方副帝ガレリウス、

西方正帝マクシミアヌス、西方副帝コンスタンティウス・クロルス

の四頭政の体制をしいた。

ローマ帝国は四分割統治されるようになったというわけだ。

 

あれほど苦しめられた異民族の侵入が一時的にせよ、

おさまり、この四頭政の20年間ローマは安全と平和が

保たれたのであった。

平和は、人間世界にとっては最上の価値なのである。

ただし、何もしないでいれば、それはたちまち手から

こぼれ落ちてしまうのだった。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

 

ああやれやれと少し一息つけた気がする。

しかし、何事にもプラス面があると同時にマイナス面も

ある。

あくまでもローマの皇帝はディオクレティアヌスで、

四分割統治は政治上の分担だったのだが。

それは、競争関係にあることから生れる、

各皇帝の縄張り意識にあった。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

ディオクレティアヌスは、専従にすることで責任感を

もたせ任務も充分に果させようと考えて、ローマ帝国

後期を特色づけるこの制度をつくったのであろう。

しかし人間とは、一つの組織に帰属するのに慣れ

責任をもたせられることによって、他の分野からの

干渉を嫌うようになるものなのである。

そして、干渉を嫌う態度とは、自分も他者に干渉しない

やり方につながる。自分も干渉しない以上は他者からの

干渉も排除する、というわけだ。この考え方が、

自らの属す組織の肥大化につながっていくのも当然であった。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

それぞれの分担地域で、公務員、官僚が増え、軍隊の兵士が

増え、その経費を賄うため税金が上がった。

 

こうしてローマ帝国は、「元首政」から「絶対君主政」への

第一歩を踏み出す。皇帝像も、「市民の中の第一人者」から

「市民とはかけ離れたところにあって支配する者」に

変わったのである。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

これでは、せっかく平和が戻ってきても不自由で窮屈な世の中に

なってしまったのではないだろうか。

 

そして、ディオクレティアヌス帝の治世で一番知られて

いるのが、キリスト教徒への弾圧と迫害である。

ディオクレティアヌスは、ギリシア・ローマ的な

神でも絶対権威になりうると考えていたようである。

それを邪魔している障害さえとり除くことに成功すれば

なりうる、と。障害とは、ローマの神々を認めない

キリスト教徒になるのは当然であった。

(「ローマ人の物語⑬」“第一部 ディオクレティアヌスの時代”より)

どんな弾圧であったのか、具体的には世界史の資料集にも

載っていないので、以下に簡単にまとめておく。

 

  1. キリスト教の教会は破壊する。
  2. キリスト教徒たちの集まりを禁止する。
  3. 聖書などの書物、十字架、キリスト像は没収。
  4. キリスト教徒の上層の者に対するすべての特典をはく奪。
  5. 法廷での弁護を受ける権利、ローマ法による保護のすべての権利を失う。
  6. 信徒の寄進による資産は没収。
  7. キリスト教徒は公職から追放される。

これにより、棄教した者も多かったという。

 

これほど強い施策を続けてきたディオクレティアヌス帝なのに、

あっさり退位をしてしまったのは意外だ。

退位後の四頭政(第二次)メンバーを決めてからの退位だったが、

残念なことにその後はディオクレティアヌスの思う通りには

いかなかった。

 

続きは次回に。

コンスタンティヌス帝の時代へ移ります。