もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「ローマ人の物語⑭」を読みました

朝は寒かったけれど、どんどん気温が上がっています⤴

そして花粉も・・・😿 

私は花粉症はそうでもないですが、

季節の変わり目にじんましんが出ます。

みなさんも気をつけてください。

 

キリストの勝利──ローマ人の物語[電子版]XIV

ローマ人の物語⑭ キリストの勝利」(塩野七生 著)を

読みました。

全15巻の第14巻まできました。

もうローマは盛期と比べればボロボロです。

でも人々は嘆き、リーダーは迷いながも生きている。

そんな人々の営みと、歴史が動くさまを味わいました。

長文記事になりますが、お許しください<(_ _)>

 

時代の転換点に生きることになってしまった人でも、

選択の自由ならばある。

流れに乗るか

流れに逆らうか

流れから身を引くか

(「ローマ人の物語⑭」“読者に”より)

今まさにロシアの侵攻にさらされているウクライナ

人びとは、こんな思いではないだろうか。

 

◆皇帝コンスタンティウス(337年~361年)

コンスタンティウスは、大帝と呼ばれた

コンスタンティヌス帝の息子。

3人いる息子のうちの次男で、コンスタンティヌス帝亡き後、

長男と三男も合わせて3人で共同統治していたが、

次々に身内を粛清していく。

そして、父と同じくキリスト教の保護へ傾倒していく。

政教分離が文明国の証明のように思われている

現代でもなお、宗教法人への非課税は存在する。

「聖なる任務」が意外にも「聖でない任務」よりも

大なる収入をもたらすのは、

人間社会の歴史的現実であるにもかかわらず、

人間は、宗教を旗印にかかげられるとついつい

ひるんでしまうのかもしれない。

(「ローマ人の物語⑭」“第一部 皇帝コンスタンティウス”より)

 

そして相変わらず、異民族の侵入は続いていた。

古代の名将と言われる人々は、アレクサンダー大王でも

ハンニバルでもカエサルでも、会戦で戦役の行方を

決するやり方を好んだが、

それは彼らが、華やかなことを好む性質の持ち主で

あったからではない。

三人とも、敵地で闘ったからである。

(「ローマ人の物語⑭」“第一部 皇帝コンスタンティウス”より)

この頃のローマは、敵地に攻め入るのではなく、

自国内に攻め入ってきた敵と自国内で闘うことが多くなった。

それなのに、兵士は減る一方、食料の補給も難しい。

短期決戦が必要不可欠になった。

 

後期のローマ帝国の税制はシンプルどころか

複雑化する一方になり、「広く浅く」も「狭く厚く」

に変わってしまったのである。このような税制下で、

私人に、公益に積極的にかかわる気持が生れるで

あろうか。

それまでに「私(わたくし)」が三本立て(註:国家、

地方自治体、私(わたくし)の三本)の一本に

なっていたのは、自分が成功できたのは社会が

その機会を与えてくれたからであり、それに対して

寄贈という形でお返しをするにすぎないという、

現代的な言い方ならば「利益の社会還元」的な考え方、

に基づいていたからである。

(「ローマ人の物語⑭」“第一部 皇帝コンスタンティウス”より)

国家、地方自治体、そして私(わたくし)、その三本ともが

機能しなくなってきた。

 

コンスタンティウス帝のときに副帝になったユリアヌスは、

副帝のときから結構奮闘している。

生活が安定すれば、民心も安定する。民心が安定することは

軍事による防衛が機能することと合わせて、ソフト面でも

安全保障のシステムが再び動き始めたということであった。

(「ローマ人の物語⑭」“第一部 皇帝コンスタンティウス”より)

 

ユリアヌスはコンスタンティウス帝の従兄弟の息子にあたる。

いつこの皇帝に粛清されるかわからない状況で

生きてきたため、なんだか肝がすわっている。

若い頃からギリシア哲学を学んできた学問好きの人だ。

好きだから(註:哲学を)選んだということは、

自分の好みに忠実に選択した結果であって、

他者のためになると思って選んだのではない。

つまり、自分のためであって、他者のためではない。

ところがユリアヌスは、副帝になってはじめて、

自分でも他者にとって、必要な存在になりうることに

目覚めたのだ。

人間は、社会的な動物である。他者に必要とされている

という自覚は非常な喜びを感じさせる。

(「ローマ人の物語⑭」“第一部 皇帝コンスタンティウス”より)

このユリアヌス、私は名前しか知らなかったが、

今回魅力を感じた人だった。

生まれた時代が違っていれば(歴史を読むとそう思うことは

たびたびだが)、きっと持てる力を発揮できたのではと

思う。

 

ユリアヌスがガリアで副帝から正帝に推挙されたことを知り、

打倒ユリアヌスに立ったコンスタンティウス帝は、

突然の病に倒れ亡くなる。

 

◆皇帝ユリアヌス(361年~363年)

ユリアヌスはコンスタンティヌス帝、コンスタンティウス帝と

続いたキリスト教振興策を、いったん「ミラノ勅令」時点に

戻そうとする。

後にマキアヴェッリが言うように、

人間の約束を守るか否かは信義の問題だが、

国家の間で成された協定を守るか否かは、

国益の問題なのである。

(「ローマ人の物語⑭」“第二部 皇帝ユリアヌス”より)

これも、今のロシアとウクライナを思うと

示唆に富む言葉だ。

 

しかし、時代は進んでいた。

時計の針は元に戻らないのだ。

ユリアヌス帝はペルシア戦役の途中、

2年にも満たない短い治世を終える。

「背教者」というレッテルを貼られたが、

ユリアヌスは教えに背いたのではなく、

自分の心にただ忠実だったのだろう。

 

次の皇帝は将軍や高官の集う会議で決められたが、

とうとうゲルマン民族出身の皇帝が誕生する時代が来た。

◆皇帝ヴァレンティニアヌス(364年~375年)

◆皇帝ヴァレンス(364年~378年)

兄弟二人の共同統治となった。

 

ちょうど“ゲルマン民族の大移動”として覚えた375年

と時期が重なる。

私が世界史で習ったとき、375年になって急に

民族大移動が始まったのだと思っていた。

確かにフン族というアジア系の民族が南下したのは

この頃なのだが、ゲルマン民族はそれまでにも

何度もローマ国境に向けて侵入をしていたことが

よくわかった。

 

まずヴァレンティニアヌス帝が375年に病気で急死する。

息子のグラティアヌスが事実上後を継ぐことになる。

 

◆皇帝グラティアヌス(375年~383年)

ローマ内に侵入してきたゲルマン民族のひとつ、ゴート族

との戦いで、ヴァレンス帝が殺される。

一人になったグラティアヌス帝は、スペインにいた

テオドシウスを呼び出し、東方の統治を任せる。

その後、ブリタニアでの反乱軍に殺される。

 

◆皇帝テオドシウス(379年~395年)

テオドシウス帝はゴート族との戦いをやめ、

ゴート族のローマ内定住を認めたのであった。

ひとつの民族に認めると、われもわれもという流れになる。

 

この頃になって私は、ローマ帝国の“滅亡”とか、

ローマ帝国の“崩壊”とかは、適切な表現ではない

のではないかと思い始めている。

滅亡とか崩壊だと、その前はローマ帝国

存在していなくてはならない。存在していないのに、

滅亡も崩壊もしようがないからである。

と言って、分解とか解体とかいう表現も納得いかない。

全体が解体して個々の物体になったとしても、

それは規模が小さく変わっただけで、本質ならば

変わってはいないはずだからだ。

となると、“溶解”だろうか、と思ったりする。

ローマ帝国は溶解していった、のであろうか、と。

(「ローマ人の物語⑭」“第三部 司教アンブロシウス”より)

“溶解”とは、国家の状態としては何ともつらい言葉だ。

外からも内からも溶けていったということか。

 

今巻の第三部のタイトルは皇帝の名ではない。

“司教アンブロシウス”となっている。

(表紙のモザイク画)

既に皇帝が誰であろうと、陰の実権はキリスト教教会が

握っていたのだ。

皇帝と司教の関係は、一般の信徒と司教の関係とは

ちがう一面をもっていた。

キリスト教の許(もと)での皇帝の権威と権力は、

人間が委託するから行使できるのではなく、

神が認めたからこそ行使できるのだ。

その神の意を伝える資格も、司教にあるのだった。

(「ローマ人の物語⑭」“第三部 司教アンブロシウス”より)

当時のキリスト教の聖職者の肩書について、本文中に

触れてあったのでまとめておきます。

◇司祭 ・・・信者と日常的に接する。

◇修道士・・・孤独な環境で信仰を深める。

◇司教 ・・・教理を解釈し整理し統合する公会議

     出席する権利をもつ。

     自らの教区に属す教会資産を思い通りに

     使える立場。

 

アンブロシウスはミラノ教区の司教でした。

皇帝に近い立場で権力を強くしていきます。

 

テオドシウス帝はキリスト教をローマの国教とする。

今までと一歩どころか数歩進んで、キリスト教以外の

宗教は異教ではすまず、邪教となってしまった。

 

今巻のタイトル“キリストの勝利”の意味は2つある。

ひとつめは“異教”に対する勝利。

ローマやギリシャ、エジプトやシリア、ユダヤの神など、

キリスト教(それも三位一体説“アタナシウス派”、

今のカトリック)以外の宗教すべてが禁じられた。

もうひとつが“皇帝”に対する勝利。

皇帝であっても人間。神にはかなわない。

もうここで既に中世の教皇と皇帝の関係に近づいている。

 

偶像崇拝を禁じたので、それまであったギリシアやローマの

彫刻、神像が破壊された。

かつては大切にし大金を払って購入した傑作の

数々を、破壊し河に投げこむように変わったのだ。

寛容とは、辞書には、心が広くおおらかで、

他の人の考えも受け容れる、とある。

ローマ人が徳の一つとさえ考えていた「寛容」の

精神も、芸術作品の傑作とともに、破壊され

捨てられ河に投げこまれたのである。

(「ローマ人の物語⑭」“第三部 司教アンブロシウス”より)

私たちが今見ることのできる彫刻や神像は、

ルネサンス期に発掘されたものや、

何者かが密かに埋めたりして隠していたもの

など運よく破壊されずにすんだものだ。

 

歴史はつながっていて、良いことも悪いことも

ほそ~い糸で過去とつながっている。

私たちはできるだけ未来に向けて良いものを

つなげていきたいと思う。

 

次巻は最終巻⑮巻。

とうとう「ローマ人の物語」も終わりを迎える。

昨年4月25日にⅠ巻の記事を書いてから、

ほぼ1年経つことになる。

最後まで読みきることができますように。