もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

柳原惣門跡

1月最後の週になりました。

なぜかわかりませんが、1月 例年より長い気がします。

1月~3月までは「いって、逃げて、去って」とあっという間に

過ぎてしまうと言いますが・・・

ちょっと若返ったのかしら( ^ω^)・・・んなアホな。

 

「うまいもんまつり」の記事をちょっと休んで、

後回しにしていた「柳原惣門跡」の記事を書きます。

 

兵庫七福神めぐりの最後、柳原蛭子神社の西に

「柳原惣門跡」がありました。  ↓

柳原蛭子神社はJR兵庫駅の東側、JR線の海側にあります。

こういう遺跡の説明、きちんと読まなかったり、読んでもよく

わからなかったりで、素通りすることが多かった。

これからは、少し調べてみることにしました。

 

柳原惣門は兵庫津の西惣門であり、兵庫城の外郭の門の一つとして

築かれたと推定されている。

 

さて、わからない言葉が続々・・・

この時点で少し気分が萎えます・・・

まず「惣門」は ↓

屋敷の外囲いにある大門、正門のこと。

江戸時代、最も重要な街道筋には惣門が置かれていた。

そして、改め番所で往来を監察した。

ふんふん。 

「兵庫津」は ↓

兵庫津は、平安時代末に平清盛日宋貿易のために整備し、室町時代には

足利義満日明貿易の拠点として栄えた港である。

元は行基が設けた摂津五泊(摂津国播磨国にかけての5つの港)の

一つ、大和田泊で知られていた。

江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地

として賑わった。

今のことばで言えば、「兵庫港」ということかな。

ここまでまとめると、

柳原惣門は兵庫港の西側の大門ということ。 

 

西側に大門があったなら、東側もあったよね、たぶん・・・

というわけで調べると柳原惣門よりJR線に沿って東へ行くと。

八幡神社があり、そのあたりが「湊口惣門跡」

になります。(実際に碑もあります)

湊口惣門が兵庫港の東の玄関口。

 

そしてちょうど「清盛くん像」があるあたりに、かつて

兵庫城があったのでした。

兵庫城ができたのは、1581年。

織田信長軍の武将、池田恒興が信長より兵庫の地を与えられ、

城を築きました。

しかしわずか2年で兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり、

兵庫城は代官の名を取って、片桐陣屋と称されました。

1615年大坂城落城後は、尼崎藩に組み込まれ、

1769年兵庫津一帯は天領になり、陣屋は勤番所に改築。

明治時代になり、勤番所が初代の兵庫県庁になり、伊藤博文

初代兵庫県知事として赴任しました。

土塁だけが残っていた兵庫城跡は、1874年兵庫港の大幅改修

により破壊されてしまいました。

 

ちなみに、当時の兵庫城、私たちが一般にイメージする

天守閣のある城とは違うようです。

興味のあるかたは調べてみてください。

 

兵庫城はたった2年で事実上役目を終えたのですね~

短いけれども、歴史は古い。

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 ↑ 一般的な城のイメージ (無料イラストより)

 

ちなみに私は高所恐怖症なので、お城に登るのは苦手です。

遠くから見るのがいいです。

と言いながら、姫路城には登りました。

一番怖かったのは松本城です。たぶん今は登れないでしょう。

○○タワーというのもだめです。

VRバーチャルリアリティー)を使って、地べたで上から見た景色を

見られたらいいなあと思います(笑)