もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「骸骨巡礼」を読みました

読書の記事ばかり続いています・・・

ここ数日何か憂鬱で、何が原因か今日わかりました。

今日から旦那さんが休業体制に入るのでした。

今月は一日おき、来月は3日に1度の出勤になります。

お昼ご飯がね~ややこしい。

年を取ると、ペースが変わるのがこたえる。

ややこしいわ、めんどくさいわで、憂鬱だったのだ。

そしてこの憂鬱の持っていき場がどこにもないのが、また辛い。

仕方ないので、愚痴としてここに書いておこう。

(読んでいるかたには申し訳ない。反省<(_ _)>)

 

骸骨巡礼 :イタリア・ポルトガル・フランス編 (新潮文庫)

「骸骨巡礼 イタリア・ポルトガル・フランス編」(養老孟司 著)を

読みました。

前作「身体巡礼」は中欧ードイツ・オーストリアチェコを訪ねて

いたが、今回は南欧ーイタリア・ポルトガル・フランスだ。

どちらかというと、墓地よりも納骨堂を重視した旅になっている。

 

今回興味深かったのは、パリのサン・ドニ大聖堂にある

フランス王朝の墓だ。

ジザンと呼ばれる、棺の蓋に置かれた彫刻に驚いた。

亡くなった本人の像なのだが、生きているときの本人ではない。

死んだ本人ー死体の彫刻なのだ。

ぱっと見ると豪華な装飾だなと思うが、単なる装飾ではないようだ。

前作と同じように、養老先生の解説されることを十分には理解

できないのだが、いろいろ考えるきっかけを与えてもらった。

ひとつ引用する。

ホスピス勤務の医師にいわれたことが忘れられない。九十歳のお爺さんが

入院していて、毎日死にたくないとわめくんですよ。ということは、

九十歳を過ぎて、これから生きようと思っているいるわけである。

それはそれでいい。でもこの人はこれまで生きてきたのだろうか。

生きることを先延ばししてきたのではないのだろうか。

現代社会、情報化社会には、そういう恐ろしさがある。

将来のため、いざという時のため。それが本当に来るのだろうか。

おそらく来ない可能性が高い。私はそう思う。

 (「骸骨巡礼」(養老孟司 著)より)

 

間違いなく現在のコロナの状況の前に書かれたものなのに、

ちょっとどっきりしてしまいます。

 

さて、死体や骸骨💀の話はこれにて終了。

次は何を読もうかしら。

 

「身体巡礼」を読みました

5月も明日で終わり。

あさって6月1日から全国的に休業要請が解除されそうです。

まだまだ感染は続いていますが、これ以上人の行き来や

経済活動を止めるのは限界だということなのでしょう。

コロナ後の世界という視点での報道や考察も増えていますが、

今の時点で予想できることはそれこそ限られていると思います。

わからないことは決めつけず、楽観も悲観もせず、

たんたんと一日を過ごすスタンスでいたいと思う。

が、難しいですね~ 感情が爆発する! 

したいことがいっぱいある!

 

身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫)

「身体巡礼 ドイツ・オーストリアチェコ編」(養老孟司 著)

を読みました。

去年、本屋さん(ジュンク堂書店大阪本店)で見つけたのが下の↓

「骸骨巡礼 イタリア・ポルトガル・フランス編」。

骸骨巡礼―イタリア・ポルトガル・フランス編―(新潮文庫)

養老先生の背後にあるのは、ポルトガル南部カンポ・マヨールの

納骨堂。本物の骸骨です。

骸骨ー怖い気持ちもあるけれど、気持ち悪いとは思わない。

でも気分が良くないかたもおられるでしょう。

そんなかたはこの記事は読み飛ばしてください。

書き方にはじゅうぶん配慮をするつもりですが、不愉快になる

場合もあるかもしれないので。

 

民俗学文化人類学などの分野に関心があるので、

人の埋葬にも興味と関心がありました。

それで手に取った「骸骨巡礼」でしたが、購入後に前作として

「身体巡礼」が出ていることがわかり、そちらを先に読むことに

しました。

それでも実際読んだのは一年後になってしまったのですけどね(^^ゞ

 

「身体巡礼」のほうの表紙は、ちょっと苦手。

ウィーンにある国立病理解剖学博物館の蝋細工模型です。

口絵には取材旅行で撮られた写真が何枚も紹介されており、

おそるおそる見ながら読み進めました。

 

養老孟司氏は解剖学者。

今は愛猫まるやご自身が採集された虫たちと鎌倉で暮らす

様子をノーナレで撮った「ネコメンタリー」でも有名。

現在の日本では人が亡くなると火葬にすることが多い。

私の子どもの頃、記憶は怪しいが、まだ土葬は行われていた。

親戚の葬儀に参列し、山のお墓までお見送りした覚えがある。

火葬が増えたのは、衛生的な問題や、土地が狭く埋葬する場所が

少なくなったからか、と勝手に考えていた。

本書を読んで、どうもそうではないようだとわかった。

埋葬は、生者が死者をどう捉えているかに関わっているのだ。

 

一番度肝を抜かれたのは、ハプスブルク家の心臓信仰だ。

ハプスブルク家の一員が亡くなると、心臓を特別に取り出して、

銀の心臓容れに納め、ウィーンのアウグスティーン教会の

ロレット礼拝堂に納める。

肺、肝臓、胃腸など心臓以外の臓器は銅の容器に容れ、

シュテファン大聖堂の地下に置く。

残りの遺体は青銅や鈴の棺に容れ、フランシスコ派の一つ、

カプチン教会の地下にある皇帝廟に置く。

つまり遺体は三箇所に埋葬される。

  (「身体巡礼」(養老孟司 著)より)

 2011年7月に最後のハプスブルク家皇太子オットー・ハプスブルク

亡くなり、この伝統に従って埋葬された。

たった10年ほど前の話だ。

養老先生も現役の解剖医時代から、この心臓を特別に扱う埋葬に

興味を持っておられ、引退後はそれについて調べることに

されたのだ。

実際に中欧の教会にある墓所や墓地を訪れた。

私にはとてもできないことなので、読みながら追体験

させてもらった。

知らないことばかりで(不真面目にとらないでほしいが)

興味深かった。

 

カタコンベというのをご存知ですか?

地下墓所のことですが、この本で私が唯一知っていた言葉ですね(笑)

カタコンベを知ったのは、小学生の頃読んだ漫画です。

わたなべまさこ さんという漫画化の描いたホラー漫画です。

どの漫画にカタコンベが出てきたのかは覚えていません。

「聖ロザリンド」という作品を強烈に覚えています。

いや、もうすごく怖い漫画でした(T_T)

カタコンベからの連想は私はこんなもんです。

なので、養老先生の思索は難しく理解できない部分も多かった

と思います。

ただ、私は私の考え方でいいのかと。

養老先生はわからないものはわからない、と一歩離れて観察する。

その姿は確かに科学者の姿だ思いました。

 

次はもともと読むつもりだった「骸骨巡礼」に

とりかかります(^^)/

 

「ブラバン」を読みました

カラッとした晴れの日。気持ちいいですね。

 

ブラバン(新潮文庫)

ブラバン」(津原泰水 著)を読み終えました。

この前に読んだのが、中学校の吹奏楽部を舞台にした「楽隊のうさぎ」。

ブラバン」は高校の吹奏楽部の思い出話と25年後の再結成の話。

・・・と思っていたから、どちらを先に読むか迷って、

「楽隊のうさぎ」を先に読んだ。

少し大人っぽくなった「楽隊のうさぎ」のイメージで、

ブラバン」を読み始めたら・・・

全然違っていた。

 

出だしからしてこんなふうだ。

バスクラリネットの死を知ったトロンボーンとアルトサクソフォンは、

ちょっとしたパニックに陥った。互いがあまりに動揺しているもの

だから、二人は遂にバスクラリネットの秘密に気づいてしまった、

四半世紀を経て。

  (「ブラバン」(津原泰水 著)より)

 なんのこっちゃ、全然わからん。

バスクラリネット(略してバスクラ)、トロンボーン

アルトサクソフォン(略してアルトサックス)は楽器の名前で、

それぞれその楽器を演奏していた人を指しているのだろうと

察しはできる。

それが誰なのか、巻頭にある登場人物一覧(3ページある!)を

見ても、同じ楽器をいろんな人が演奏しているので、

わからないのだ。

わからんなあ、わからんなあ、と思い続けながら読み進め、

あるところで謎が解けるように納得する。その繰り返しだった。

氷が解けて、中に隠れていた真実が表に出る。

そのさまは、すっきりすることはするが「知らなければよかった」

ことも多い。

 

作者の津原泰水氏は、1964年広島県生まれ。

いやもう、ドンピシャ同世代である。

作品の語り手が、1980年に高校に入学した他片等(たひらひとし)

だから、私よりひとつ下の学年になる。

舞台は広島で、広島弁で繰り広げられる生徒同士の会話は、

語感は柔らかく見えて実はストレート。

当時流行った歌、音楽、テレビ、CM、ニュース、国際問題、

などが高校生時代の生活と共に一気に思い出される。

 

私自身は高校では吹奏楽部ではなく、ギター・マンドリン部に

入った。

新しいことをやってみたかったのと、入学式でギタマンの演奏を

聴いたことがきっかけだった。

その練習場所が、体育館の下にあった半地下の小講堂という

スペースだった。

小講堂の隣は卓球場で、その隣は各クラブの部室がずらーと並んで

いて、まあ狭くて臭いスペース(笑)

合奏は音楽室で行う吹奏楽部も、パート練習や個人練習には

部室や半地下のスペースを使うことも多く、がちゃがちゃと

いつもうるさかったです。

それでも人数が多く音も大きいブラバンは、

ギタマンからみれば羨ましい存在でありました。

 

卒業から四半世紀経って、40代前半。

再結成しようと探した元メンバーたちの現在の状況は?

それぞれが愛した音楽と、音楽を愛し続けた元吹奏楽部員の

物語だった。

 

洋楽には暗いので、洋楽の曲名やバンド名、メンバー名、

楽器のメーカー名など、知らないカタカナ語には手を焼いたが、

まあ気にせず読み飛ばしても差し障りはない、と思う。

(すみません、津原さん<(_ _)>)

もう一度読み返してみたい、感動的な作品だった。

 

「楽隊のうさぎ」を読みました

非常事態宣言が出る前から、確か3月上旬から学校が休校に

なりました。

自分の子どももとうに大学を卒業し、孫もいないので、

自分が学校に直接関わることはしばらくありません。

だから自分にとって「特に支障のないこと」ではあります。

だからといって、「関係のないこと」では・・・ないんだな~

 

学習はオンライン授業の模索が始まり、いろいろ問題はありつつも

環境が整っていくのだろうと思う。

しかし・・・クラブ活動はどうなるのだろう、と私はずっと案じている。

 

このコロナ感染拡大のうんと前から、

少子化が進んで、大人数で行うクラブ活動がだんだん危機的な

状況になっていくだろうと思っていた。

チームでプレーするスポーツ。

合唱、吹奏楽などの大人数音楽系。

演劇、などの分野。

部員が少ないと成り立たないクラブが出てくる。

 

スポーツや音楽など文化活動を、学校のクラブ活動から

始める子どもが日本では多い。

人数が少なくなってできなくなる活動のほかに、このコロナ拡大予防で

1対1でやるスポーツなんかも難しくなってきた。

ぼちぼち登校を始める学校も出てきたけれど、

クラブ活動ができなくて、「もう本当に気がおかしくなりそう」な

子どもたちがいるんじゃないかしらと憂う。

そしてその子どもたちに「こうだよ」と明確に言ってあげる

言葉が全然なくてつらい。

 

楽隊のうさぎ (新潮文庫)

「楽隊のうさぎ」(中沢けい 著)を読みました。

 

BOOK OFFでだいぶ前に購入したけれど、積んでいたもの。

表紙を見れば一目瞭然。中学校の吹奏楽部のお話です。

平成12年単行本発行、平成15年文庫化だから、20年ほど前の

話になる。

けれど、40年以上前に中学校で吹奏楽部にいた私にも

全然リアルに感じられる群像劇でした。

主人公は中学に入学したばかりの奥田克久くん。

小学校で少々いじめにも遭い、中学ではクラブ活動なんか

参加せずにさっさと帰宅する生活を考えていたのに、

ひょんなことで吹奏楽部に入ることになる。

 

いわゆるギョーカイ用語(笑)が満載。

パーカス・・・パーカッションパートのこと。

パート練習・・・各パートでする練習。略してパー練。

実は音楽系のクラブはスポーツ系に負けず劣らず練習がハードです。

朝練(始業前の練習)があり、昼練(昼休みの練習)があり、

放課後はもちろん、夏休みも冬休みも春休みもずーっと練習で、

家に帰ってからも練習(個人練習)。

 

主人公の克久くんはパーカッションパートに入る。

いや、もう私と全くおんなじやん!

コンクールを目指して、校舎の一番上の4階の教室で

汗だくになりながらスティックで板を叩いて、マメばかり作っていた。

私とおんなじやん!

夏の暑さと蝉の声と汗のにおいと部員の騒がしい声と、

プアアーンというロングトーンの音と、

全身の感覚がよみがえってきます。

 

高校受験や親との確執、先輩・後輩との不協和音、

先生や指導者との対立。

中学生の悩みやしんどさはびっくりするほど何も変わらない。

私の通った中学は、当時それほどの吹奏楽の名門校ではなかったので、

コンクールは地方大会までだったし、

保護者や学校内部からの圧力もそんなになかった。

克久の中学は埼玉県の名門校で、全国大会の常連。

それは大変だろうと思う。

 

作品は、克久が2年になった秋の全国大会、普門館*1での

ステージを終え、拍手と「ブラボー!」という声に包まれる

ところで終わる。

こんな経験を誰もができるわけではない。

それでもきっとわくわくするだろう。

こんなわくわくをどうかこれからも子どもたちが

味わえますように。

 

主人公は中学生の克久だが、作者の語りの視点はなんというか、

少し離れたところにある。

克久の視点だと思っていたら、すーっと離れていき、

母親の百合子さんが登場すると百合子さんの視点になったり。

私も中学生の克久になったり、母親の百合子さんになったり、

忙しかったです(笑)

 

今の状況でこの作品を読むことになったのは何か意味が

あるのかもしれない。

みんな、心を折らないで。エールをおくるから。

 

*1:吹奏楽の聖地と呼ばれた東京都杉並区のホール。現在は解体中

「新装版 46番目の密室」を読みました

5月も最終週となりました。もうじき梅雨のシーズンなんですね~

大雨で災害にならないことを祈るばかりです。

外に買い物やウォーキングに行くときは、

アマビエのマスコットをぶら下げてコロナを撃退(`・ω・´)b

もちろん手洗いと消毒も。 

 

新装版 46番目の密室 (講談社文庫)

「新装版 46番目の密室」(有栖川有栖 著)を読みました。

有栖川ミステリを続けて読んでるな~

ちょろっと読みだすと続きが気になってしまい、気づいたら謎解きまで

来てしまったという典型的なミステリの醍醐味を味わわせて

もらえる作品です。

 

「46番目の密室」は火村&アリス シリーズの始まりとなった

第1作。

講談社ノベルスの刊行が1992年、文庫化が95年。

その新装版が2009年に出て、私が買ったのが2016年。

新装にあたって、そこそこ手を入れられたそうだが、

旧版を持っていない私には違いがわからない。

火村とアリスはこの作品当時32歳。それから2歳年を重ね、

34歳で2人の年は止まってしまった。(笑)

 

火村センセが気障でちょっと笑ってしまう。

「確かに掛け金は降りていたんですね?」

と聞く取り調べの警視に向かって、

「ええ、未来の妻の名に賭けて」

と答え、

別の質問には、

「はい。初恋の人の名に賭けてもいい」

と言う。

今は言わんやろ。さすがの火村センセも。

 

まだ駆け出しの作家アリスが、恒例のクリスマスパーティー

火村を伴って出かける。

パーティーの会場は、軽井沢にある推理小説作家 真壁聖一氏の

別荘だ。

真壁は密室トリックのミステリだけを発表している

大家。今まで45作品、45の密室トリックを披露し、

46番目の作品を執筆中という設定だ。

「お出かけ巻き込まれ型」だが、この作品のポイントはやはり

密室だろう。

 

作者の有栖川さんは、特に密室ものを多く書かれているわけでは

ないが、密室に対してはかなりの思い入れがあると思う。

有栖川有栖の密室大図鑑」という本を出されていて、

03年新潮文庫で文庫化もされた。(いずれ買うつもり)

作中では、真壁が「日本のディクスン・カー」と称されているという

設定だが、密室といえば、確かにジョン・ディクスン・カー

(これは本名、ペンネームの別名カーター・ディクスン)かなと思う。

 

手元にある創元推理文庫の「ユダの窓」。 

ユダの窓 (創元推理文庫)

ちゃんと本文に入る前に間取り図が付いています。

わくわく(笑)

 

日本のミステリでは横溝正史の「本陣殺人事件」かな~

他にぱっとは思い出せない・・・

 

「46番目の密室」の犯人の動機を火村・アリスコンビは公にしない。

それは哀しくつらい動機だからだ。 

密室という論理的なトリックと、悲しい動機は

お互いを際立たせているなと思いました。

次もまたこのシリーズを読むか、

全く違う作品になるか、

今はまだわかりません。

 

大豆とミンチの炒めもの

今日は暑いです🔥

水分を積極的に摂りましょう。

 

昨夜のおかずは「大豆とミンチの炒めもの」でした。

お気に入りのおかずなので、ブログにあげます。

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金曜日はよつばデリバリーの配達の日。

「野菜大好き」で小松菜とレタスが届きました。

「野菜大好き」というのは、地場の野菜で過剰なものが出たときに、

引き受ける会員の登録名です。

何が来るかはわかりませんし、ないときもあります。

一品100~200円で、特に安いということもありません(^^ゞ

私にとっては、地場の農家を助ける応援の気持ちと、

有機や減農薬で育てている食べ物をちょっとは食べたい

という気持ちで会員をしています。

 

レタスが1玉来たときは、このメニューを必ず作ります。

 

<材料>(4人分)*注 昔のレシピなので分量多いです

水煮大豆 1パック

豚ミンチ 150g

玉ねぎ  1玉

土しょうが 1かけ

生しいたけ 3枚

ピーマン 1~2個

トマト  1個

レタス  1/2玉

(調味料)みそ 大さじ2

     酒  大さじ2

     砂糖 大さじ1/2

     しょうゆ 大さじ1/2

 

<作り方>

①下ごしらえ

玉ねぎ・・・1㎝角

土しょうが・・・みじん切り

生しいたけ・・・1㎝角

ピーマン・・・1㎝角

トマト・・・(気になる人は湯剥きして種を取る)1㎝角

 

②調味料を合わせておく

 

③レタスを洗い、あらくちぎって皿に敷く。

 

④水溶き片栗粉を作っておく

 片栗粉 小さじ2

 水   小さじ4

 

⑤鍋(深めのフライパンでも可)に油大さじ1を熱し、

しょうがのみじん切りを入れて香りを出し、

豚ミンチを入れて炒め、色が変わったら玉ねぎを加えて

炒める。

 

⑥ ⑤に水煮大豆を入れて炒め、②の調味料を加える。

 

⑦しいたけ、ピーマン、トマトを加えてさらに炒め、

水溶き片栗粉でとろみをつける。

 

⑧敷いたレタスの上に⑦を盛る。

 

準備をしておけば、作るのは一気です。

食べる直前に炒めましょう。

レタスでミンチのあんを包んで食べるとおいしいです。

 

「朱色の研究」読みました 続き

昨日「緊急事態宣言」が大阪府京都府兵庫県で解除されました。

残りの近畿の県は先週14日に解除されているので、

この1週間、だいぶお店の休業も解除されて人出も増えてきたな

と思います。

国や県の要請がなくなると、これからは個々人の判断になる。

 

買い物も3日に1回などのまとめ買いを続けるか、

この外出は「不要不急」か、

こうした悶々とした自問をしていかなくてはいけない。

 

私自身は、とりあえず5月中は今までの生活を続けるつもり。

気長~に続けていけるように、ストレスをためないように、

工夫は続けたい。

 

朱色の研究 (角川文庫)

「朱色の研究」(有栖川有栖 著)について、もう少し書いておきます。

 

朱色が夕日、夕焼けをイメージしていることは前回書きました。

 

日が沈むところを浄土と考える信仰が昔からあり、

井上靖補陀落渡海記」(ふだらくとかいき)が作中で紹介されていた。

補陀落観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる

伝説上の山。その山の形状は八角形で、インドの南端の海岸にあるとされた。

補陀落渡海の基本的形態は、日本の中世において、南方に臨む海岸から

行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。

その後伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。

渡海船には箱が積み込まれ、30日分の食物と水と共に行者が乗り込む。

その後板で塞がれ、外に出ることはできない。

(ウイキペディアより)

 

形態は異なるが、生きながら地中に埋められ即身仏となる

羽黒山の信仰と似ている。

一種の殉教なのだ。

 

極楽浄土を願う想いから、地獄と極楽の話になる。

犯罪社会学者の火村センセが、地獄と極楽について次のように

言うシーンがあった。

「私は、地獄も極楽もこれっぽっちも信じていないだけです。

そんなものは、現世の不合理不条理から目を背けるための方便

として仮構されたフィクションにすぎない。街角で

『悔い改めよ』というプラカードを掲げたキリスト教徒が訴える

最後の審判も、もちろんありはしない。そんなことは

直感的に自明だから、東洋にも西洋にも、いや、どんな共同体にも

刑罰が存在するんです。もしも、死後に神の裁きが待っているのなら、

人間が人間を裁くことは僭越であるばかりか、犯罪的に傲慢です。

この世には人間しかおらず、あの世は存在しないから、犯罪者は

人間の手で裁かれるべきなんです」

 (中略)

「薄ら寒く聞こえるかもしれませんが、矛盾はしていない。地獄は

ありません。地獄に落ちて永遠に業火に焼かれろ、と思うほど

呪わしい悪党も、この世で罰を受けるだけです・・・(後略)」

 (「朱色の研究」(有栖川有栖著)より) 

 

地獄と極楽については、多分に宗教観に関わることなので、

プライベートな観念だと思います。

私自身は、特に信じる宗教もなく、単なる行事として葬式や法事は仏教で、

結婚式は神式で、初詣や厄除に神社に行く、という生活をしてきました。

ただこの年齢になると、自分自身の死後のことも考えるようになりました。

自分の死後この世に残った人のことを考えるのではなく、

(もちろんこれも大事ですが)

死後自分がどうなるのか、ということです。

私は死んだことがないのであの世があるのかどうかはわかりません。

でも、火村センセのように「あの世は存在しない」と断言することも

できないのです。

この世では誰もわからないから。

わからないだけで、「絶対ない」とは言えないと思います。

あくまでも私個人の今の考えです。

また変わるかもしれないけれど。

 

純粋な信仰ではないかもしれないけれど、お寺で仏像を見て拝んだり、

神社で神様にお願いごとをするのは、私の身近な行動です。

仏さまや神様は私にとって崇高な存在であるとともに、

話を無条件で聞いてくださるありがたい存在です。

奈良で育った環境は大いに影響しているでしょう。

でも京都や奈良で育ったからといって、皆がお寺好き神社好きに

なるわけではないので、やはり私個人の心の中のことだと思います。

 

「朱色の研究」、いろいろと考えさせてくれる

盛りだくさんな作品でした。