もりっちゃんのゆるブログ

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「朱色の研究」読みました 続き

昨日「緊急事態宣言」が大阪府京都府兵庫県で解除されました。

残りの近畿の県は先週14日に解除されているので、

この1週間、だいぶお店の休業も解除されて人出も増えてきたな

と思います。

国や県の要請がなくなると、これからは個々人の判断になる。

 

買い物も3日に1回などのまとめ買いを続けるか、

この外出は「不要不急」か、

こうした悶々とした自問をしていかなくてはいけない。

 

私自身は、とりあえず5月中は今までの生活を続けるつもり。

気長~に続けていけるように、ストレスをためないように、

工夫は続けたい。

 

朱色の研究 (角川文庫)

「朱色の研究」(有栖川有栖 著)について、もう少し書いておきます。

 

朱色が夕日、夕焼けをイメージしていることは前回書きました。

 

日が沈むところを浄土と考える信仰が昔からあり、

井上靖補陀落渡海記」(ふだらくとかいき)が作中で紹介されていた。

補陀落観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる

伝説上の山。その山の形状は八角形で、インドの南端の海岸にあるとされた。

補陀落渡海の基本的形態は、日本の中世において、南方に臨む海岸から

行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。

その後伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。

渡海船には箱が積み込まれ、30日分の食物と水と共に行者が乗り込む。

その後板で塞がれ、外に出ることはできない。

(ウイキペディアより)

 

形態は異なるが、生きながら地中に埋められ即身仏となる

羽黒山の信仰と似ている。

一種の殉教なのだ。

 

極楽浄土を願う想いから、地獄と極楽の話になる。

犯罪社会学者の火村センセが、地獄と極楽について次のように

言うシーンがあった。

「私は、地獄も極楽もこれっぽっちも信じていないだけです。

そんなものは、現世の不合理不条理から目を背けるための方便

として仮構されたフィクションにすぎない。街角で

『悔い改めよ』というプラカードを掲げたキリスト教徒が訴える

最後の審判も、もちろんありはしない。そんなことは

直感的に自明だから、東洋にも西洋にも、いや、どんな共同体にも

刑罰が存在するんです。もしも、死後に神の裁きが待っているのなら、

人間が人間を裁くことは僭越であるばかりか、犯罪的に傲慢です。

この世には人間しかおらず、あの世は存在しないから、犯罪者は

人間の手で裁かれるべきなんです」

 (中略)

「薄ら寒く聞こえるかもしれませんが、矛盾はしていない。地獄は

ありません。地獄に落ちて永遠に業火に焼かれろ、と思うほど

呪わしい悪党も、この世で罰を受けるだけです・・・(後略)」

 (「朱色の研究」(有栖川有栖著)より) 

 

地獄と極楽については、多分に宗教観に関わることなので、

プライベートな観念だと思います。

私自身は、特に信じる宗教もなく、単なる行事として葬式や法事は仏教で、

結婚式は神式で、初詣や厄除に神社に行く、という生活をしてきました。

ただこの年齢になると、自分自身の死後のことも考えるようになりました。

自分の死後この世に残った人のことを考えるのではなく、

(もちろんこれも大事ですが)

死後自分がどうなるのか、ということです。

私は死んだことがないのであの世があるのかどうかはわかりません。

でも、火村センセのように「あの世は存在しない」と断言することも

できないのです。

この世では誰もわからないから。

わからないだけで、「絶対ない」とは言えないと思います。

あくまでも私個人の今の考えです。

また変わるかもしれないけれど。

 

純粋な信仰ではないかもしれないけれど、お寺で仏像を見て拝んだり、

神社で神様にお願いごとをするのは、私の身近な行動です。

仏さまや神様は私にとって崇高な存在であるとともに、

話を無条件で聞いてくださるありがたい存在です。

奈良で育った環境は大いに影響しているでしょう。

でも京都や奈良で育ったからといって、皆がお寺好き神社好きに

なるわけではないので、やはり私個人の心の中のことだと思います。

 

「朱色の研究」、いろいろと考えさせてくれる

盛りだくさんな作品でした。