11月が今日で終わり。明日から12月です。🎅🎄
今日は手袋とマフラーを押し入れから出しました。
もうすっかり冬支度です。
「最後から二番めの真実」(氷川透(ひかわとおる) 著)を
読みました。
氷川透氏の作品は初読です。
この本も「青銅の悲劇」と同じく“後期クイーン問題”に挑んだ
作品として挙げられていたものです。
また難しいかなとびびって読み始めましたが、
だいぶ読みやすかったです。
雰囲気は、森博嗣氏のS&Mシリーズ(犀川センセと萌絵ちゃん)
に似ています。
舞台は、私立聖習院女子大学の文学部哲学科の研究棟。
推理作家志望の主人公、氷川透(ひかわとおる)が、
大学の先輩にあたる、哲学科専任講師の住吉昌喜
(すみよしまさき)を訪ねるところから始まる。
哲学科のあるフロアの一室で、中で待っているはずの
英米文学科の女子学生が消え、様子を見に入って行った
警備員が死んでいた。
不明の女子学生は屋上から逆さ吊りになって発見される。
事件に挑むのは当の氷川と、かなりぶっ飛んだ感じの
女子学生 祐天寺美帆(ゆうてんじみほ)。
事件はこれだけだし、登場人物もそれほど多くない。
女子大を舞台にしたキャンパスミステリーとして楽しめます。
ただ私としては、“後期クイーン問題”にどう挑んでいるのかに
興味がありました。
“後期クイーン問題”については、「青銅の悲劇」の記事に書いたので、
ここでは簡単に触れるだけにします。
作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか
作中では証明できないこと。
つまり“推理小説の中”という閉じられた世界の内側では、どんなに
緻密に論理を組み立てたとしても、探偵が唯一の真相を確定する
ことはできない。なぜなら、探偵に与えられた手がかりが完全に
揃ったものである、あるいはその中に偽の手がかりが混ざっていないという
保証ができない、つまり、「探偵の知らない情報が存在する
(かもしれない)ことを探偵は察知できない」からである。
(ウイキペディアより)
なんのこっちゃと最初は思いましたが、
この作品「最後から二番めの真実」を読んで、ぼわ~っと
わかってきました。
まずクイーンの国名シリーズに倣って、
“読者へ”と題したページが謎解きの前に挟まっています。
この1ページ、長くなりますがちょっと心が温かくなったので、
引用します。
読者へ
作中でゲーデル問題などに言及してしまった以上、このページの役割は
いまさら言うまでもない。作者としての「氷川透」が保証します、
この作品をここまで読めば、唯一可能な真相に行き着くことは
可能ですよーそう断言することが、このページの役割なのだ。
だから、べつに読者に喧嘩を売っているわけではない(そもそも
「挑戦」なんて言葉はこのページでは使われていないではないか)
わけだが、そのほうが燃えるというかたはもちろんそう読んで
くださってかまわない。
しかし同時に、読者はこう疑っているはずだーゲーデル問題から
すれば、作中人物の「氷川透」が唯一可能な真相に行き着く保証は
ありえない、と。そう、まったくそのとおりである。
それこそが、この物語の作者と主人公が同じ名前を有している
理由であり、「後期クイーン問題」への一つのーささやかな
ものにすぎないが、ぼくの信ずるところでは無意味ではないー
抵抗なのだ。
推理小説ファンが真剣に考えてみてくれるとすれば、それ自体が
とてもありがたいことだーぼくは、そう思う。
氷川 透
(「最後から二番めの真実」より)
“ゲーデル問題”なんてまた難しいことばが出てきましたが、
これを説明するのは私は無理。興味のあるかたは検索を
かけてみてください。
一つの挑戦が、探偵 氷川透のセリフとして語られます。
「たとえば、今回のように現実に殺人事件に遭遇したときー」
(中略)
「言うまでもなく、すべての手がかりは提示されただの、
犯人はにせの手がかりを残してないだの、
誰も保証してくれません。つまり、探偵役を務めようと
しても、絶対の真実、最終的真実まで行き着くことは
たぶん不可能です」
(中略)
「でも、現実に殺人が起こった以上、現実に犯人はいる
わけでーそこから探偵役がめざすべきものはね、
いわば最後から二番めの真実なんですね」
(「最後から二番めの真実」より)
タイトルもここから取られているのでしょう。
絶対の真実はありえなくても、もろもろの事情でその一歩手前の
真実をかりそめに認めることはできる、
なるほどです。
私にはこれで十分な答えになりました。
どんな名探偵も最後から二番めの真実を解き明かしたに
すぎなくとも、それで充分なのだと。
勝手に満足したので、そろそろ本来のクイーンの作品に
戻らなくては・・・