もりっちゃんのゆるブログ

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「坂の途中の家」を読みました

(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン

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(暑さに苦しむ私のうめき声)

 

角田光代著「坂の途中の家」を読み終えました。

坂の途中の家

本屋さんで読みたい本を物色し、図書館で予約しようと

思いました。

家に帰ると「~~家」というタイトルしか覚えていませんでした。

検索して、

東野圭吾氏の「人魚の眠る家」と

上記の「坂の途中の家」のどちらかだと思い、両方予約しました。

「人魚~」の方は200件以上の待ちなので2年くらい先に

なるでしょう(^^ゞ

 

さて、「坂の途中の家」、なかなかキツい中身です。

2歳の女の子をもつ専業主婦の里沙子が、裁判員に選ばれる

ところから物語は始まる。

それは娘を虐待死させた(疑いで起訴された)母親の

裁判だった・・・

裁判が進むにつれ、自分の子育て、出産、結婚、恋愛、

学生時代、幼少時代と記憶を遡っていく里沙子。

 

“坂の途中の家”とは、被告人の親子が住んでいた家のこと

なのだが、読み進めるうちに、

“誰もが坂の途中の家に住んでいる。一歩外へ出れば急な坂道に

足を取られて転げ落ちるかもしれないし、

信じられないくらいの上り坂に気が遠くなるほど苦しい

ときがある。”

そんなふうに思えてくる。

家族との生活は、実は不安定で怖いシーソーの上で懸命に

バランスをとりながら安定を保つ、そんなものかも

しれない。

 

心に残った里沙子のセリフ。

(中略)

私たちはだれでもない、母親でもなく妻でも、だれかの娘でもない、何も負わされることなく、ブランドものや仕事や前の恋人やほかの若い母親、そんなものに何ひとつとらわれることなく、無邪気な自信と陽気さにあふれた、まっさらな自分自身に戻って向き合えたかもしれない。

 そうやな~ そんなふうに生きるのはもう無理なんかな~

 

裁判の結審、判決公判の日で物語は終わる。

小説の中だけのこととして読み終えるには重く、

さあこれから自分はどう生きる? どう生きたい?

アンバランスなのは家じゃなく、私の心かも。