「柿の種」(寺田寅彦 著)を読みました。
この本は長い間手元に置いている本です。“読みました”と書きましたが、ちょこちょこと空いた時間に開いて、読み始め、ちょろっと読んで閉じる・・・みたいなことができる小文集です。
//この本を読んでいたら、旦那さんが「あっ、柿の種」と言うので、「アナタの好きな“柿の種”ではないよ」と言ったら、「あの“柿の種”にちなんでタイトルをつけたの?」とのたまう。「そんなわけないやん」とちょっとムキになって答えると、「なんで?“柿の種”がもう発売されてたかもしれんで」としつこい。あ~めんどくさ。
あの某米菓“柿の種”がなぜ、普段目にする丸くて(桜の葉っぱの形)ぺっちゃい柿の種ではなく、三日月形なのかも含めて、“柿の種”が寺田寅彦の生きていた時代に、もうこの世にあったのかを調べました。結果は記事の最後に。知っている方は無視してください。//
なので、何度か“読んでいる”わけですが、今回改めて記事にすることにしました。
寺田寅彦といえば、私の世代では「国語のテストによく出た人」の印象が強いです。問題文を読んで、文章の最後に(寺田寅彦『・・・・・』)とあると、またかと思いました。それだけの印象で、寺田寅彦が何者なのかを知り始めたのは大人になってから、それも子どもが中学へあがる頃です。その頃から、寺田寅彦に限らず、エッセイや紀行文、日記なんかをよく読むようになりました。小説のように、途中でやめてもわからなくなることがないし、時間をとれない忙しい合間に読むのに適しているように思います。
その中でも、この「柿の種」のひとつひとつの小文は本当に短く、それでいて味わいがあります。
棄てた一粒の柿の種
生えるも生えぬも
甘いも渋いも
畑の土のよしあし
(「柿の種」より)
「柿の種」に収録されている文章について、中の“自序”で、
俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに、「無題」という題で、時々に短い即興的漫筆を載せて来た。
と説明されている。「渋柿」の中の“種”という意味かと思われる。
作者は物理学者だが、文学にも詳しく、俳句もやり絵も描く。俳句と画と短い日記のような文章。私の好きな正岡子規の著書にも似ている。
ひとつひとつにタイトルがないので、勝手にタイトルをつけ付箋に書いて目次のようにしている。
勝手につけたタイトルと共に少し紹介する。
芭蕉は定食でいいという、歌麿はア・ラ・カルテ(註:a la carteのこと)を主張する。
前者は氷水、後者はクラレット(註:赤葡萄酒)を飲む。
前者は少なく、後者は多く食う。
前者はうれしそうに、あたりをながめて多くは無言であるが、後者はよく談じ、よく論じながら、隣の卓の西洋婦人に、鋭い観察の眼を投げる。
(「柿の種」より)
作者の白昼夢だが、愉快な光景で、あの二人だったらそうかもと思わせる。
だが、松尾芭蕉(1644~1694)と喜多川歌麿(1753~1806)は同じときを過ごしてはいなかった。残念・・・
『空間の美しさ』
私は電車やバスに乗っているとき、窓の外の風景を見るのが好きだ。特に初めての場所だと夢中になってしまう。そんなとき、あっと息をのむ風景に出合うことがある。それは別に富士山の絶景や、絵はがきのような風景ではない。
こういう所の美しさは純粋な空間の美しさである。それは空虚な空間ではなくて、人間にいちばんだいじな酸素と窒素の混合物で充填され、そうしてあらゆる膠質的浮遊物で象嵌された空間の美しさである。肺臓いっぱいに自由に呼吸することのできる空気の無尽蔵の美しさなのである。
(「柿の種」より)
“膠質的浮遊物で象嵌された”って・・・いまだにようわからん・・・
『涙』
作者は晩年(といっても亡くなったのは57歳)、体中が痛む病気になり(ウイキペディアによると転移性骨腫瘍)、夜も眠れないほどだった。そんなとき夜は長い。
夜が明けて繰り開けられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラス障子越しに庭の楓や檜のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り残った葉が朝風にゆれていて、その向こういっぱいに秋晴れの空が広がっている。
そういう時にどうしたわけかわからないが、別に悲しくもなんともないのに涙が眼の中にいっぱいに押し出してくる。
(「柿の種」より)
何の涙かわからない、そういうときはある。私はこのくだりを読むといつも泣きそうになる。
最後に、私が『おとうちゃん』とタイトルを付けた一片について。これについては中身は紹介しない。青空文庫でも読めるので気になったら探してみてください。
最後に。
寺田寅彦は明治11年生まれであり、「柿の種」は大正9年から昭和10年まで書かれたもの。なので、今の時代に照らすと古い考え方、差別的な表現などがどうしてもある。だから違和感を感じることもあるが、人間の心の動き、日常の生活を見つめる眼にはやはり心惹かれるのだ。
//某米菓“柿の種”について
最初に“柿の種”を作ったのは、新潟県長岡市の浪速屋製菓。創業は1923年。
はじめは餅を長円形の金型でくりぬいた小判型でした。ところが、創業者の妻が金型をあやまって踏んづけてしまい、ゆがんでしまいました。元に戻らず、金型は貴重なのでそのまま使ったら、三日月形のあられになりました。このあられに“柿の種”と名づけたのは長岡の八百屋さん。福島県のあんぽ柿の種はこの三日月形に似ているそうで、その八百屋さんはその柿の種を連想したのかもしれないとのこと。
(毎日小学生新聞より)
寺田寅彦の没年が1935年。その10年前には“柿の種”が存在していたことになる。旦那さんは「ほら~」とうれしそう。私はもう何も言わなかったが、絶対違うと思っている。//