「灰の劇場」(恩田陸 著)を読みました。
2021年3月6日付の毎日新聞「今週の本棚」欄で著者紹介として載っていた本。
切り抜きに“121件”と鉛筆書きがあるので、たぶん図書館でそれだけ予約がついていたのでしょう。
2年経ち、普通に返却棚で見つけ借りてきました。
作家である「私」は、ずっと心に棘のように刺さっていた新聞記事をモデルにして小説を書くことにした。
その記事は、初老の女性二人が橋から飛び降りて自殺したというものだと「私」は思っていたが、実際調べてみると、45歳と44歳の女性だったことがわかる。その二人は大学時代の同級生で、東京大田区のマンションで同居していた。
なぜ同居していたのか。そしてなぜ二人で死ぬことになったのか。
物語は、専業作家になり女性二人をモデルにした小説を書くことにした「私」と、やがて死ぬことになる女性二人(作中ではTとMというイニシャルで表されている)、そしてそのモデル小説「灰の劇場」の舞台化を控えた数年後の「私」の3パートで紡がれる。
最初は少しややこしいが、慣れるとぐっと話に引き込まれる。
恩田陸氏(1964年生まれ)は私と同年代なので、自身の生活や体験に基づいて書かれたという「私」には、共感できる部分が多かった。そう思うと、共感は共有する経験が影響するのかもしれない。
とはいえ、作者も「私」を通してこう言っている。
新しい技術は新しい言語のようなもので、年を重ね、徐々に変化を厭うようになると、受け入れるのが難しくなる。特に、パソコンとインターネット環境のような、それまで全く存在しなかった、それまで持っていなかった概念の技術に接した時、「理解できないのではないか」「ついていけないのではないか」という恐怖を感じたのである。
(中略)
人は変化を好まず、新しいものを恐れる、というのが更に実感できる年齢になってくると、新しいものに「ついていけない」という感覚が絶望に結びつく、ということも理解できるようになってきた。
どうなのだろう。
彼女たちには、この「ついていけない」という感覚はなかったのだろうか。
(「灰の劇場」より)
今バリバリ使いこなしている技術もいずれ古くなる。いつの時代もそのくり返しなのだ。そのくり返しのサイクルがどんどん短くなっているのだ。
もちろんこの話は小説であり、恩田さんの書いたフィクションだ。彼女らの死の真相はわからない。しかし、「私」の物語は読んでいる読者である“わたし”の物語になり、彼女らの物語になる。その境界があいまいになってくる。
彼女たちの死は事実だ。でもその真相、真実はひとつではない。読者ひとりひとりの“わたし”の物語が同時に進行していく。そんな読書体験だった。