もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

尼崎の街お散歩ウォーク その1

そろそろ梅雨入りかな~と思わせる少し蒸しっとした

日和です。

お出かけには向きませんが、楽しく梅雨どきを過ごしたい

ですね。

 

20日の日曜日、第3回あましん・阪神沿線そぞろあるき

「新緑の候・青葉の香をのせて尼崎の街お散歩ウォーク」

に参加してきました。

今日と違って湿度は低かったけれど、日差しが強くて

暑い日でしたよ~~🌞

 

阪神出来島駅南側の大和田川公園に9:30集合。

今回は先に駅でトイレを済ませましたよ(^^)v

北進して千船大橋で神崎川を渡り、左門小橋で左門殿川を

渡り、早々に尼崎市に入りました。

阪神本線の高架下をえんえん歩きます ↓

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公園ではあじさいが咲きかけ。

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3.5㎞歩いたところでもう昼食ポイント。

まだ10:40くらいですが先に食べちゃいました。

お昼を食べた小田南公園は、ユニチカ工場のあったところです。

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尼崎市兵庫県なのに電話の市外局番が大阪市と同じ06です。

この謎にはユニチカが大きく関わっています。

明治22年に尼崎紡績という会社が尼崎にできました。

そのときに引いた電話(線)が尼崎初めての電話でした。

尼崎紡績は自前で電話線を架設し、それを大阪電話交換局に

寄付したのです。

尼崎は大阪との経済的な結びつきが強かったのに、市外通話では

交換(当時電話は交換手がつないでいた)に時間が

かかるし、通話料も高額。

市や商工会議所などが陳情して、昭和37年に尼崎市

市外局番は06となり、大阪市との電話は市内通話扱いと

なったのでした。

電話線を自前で引いた尼崎紡績が今のユニチカです。

尼崎紡績は大正7年に大日本紡績と改称、昭和39年に

ニチボーに改称、昭和44年に日本レイヨンと合併し

ユニチカとなりました。

 

ユニチカといえば、私はバレーボールと制服を

思い出します。

ユニチカのバレーボールチームは子どもの頃よく見た

テレビ中継で、とても強いチームでした。

ニチボー貝塚という名前を聞いたことがある人も

おられるでしょうが、ユニチカチームの前身が

このニチボー貝塚です。

当時ニチボーの貝塚工場にバレーボール部があり、

そう呼ばれました。

東洋の魔女と呼ばれ、東京五輪にも出場した

全日本チームもほとんどニチボー貝塚の選手でした。

今、ユニチカチームは会社の業績悪化により東リに

選手が移籍し、なくなってしまいました。

 

もうひとつの制服というのは、

25才で転職したとき同じビル内にユニチカのオフィスが

ありました。

化粧室などでユニチカの女性社員と会うことがあり、

制服がかわいかったのを覚えています。

 

ユニチカ工場跡の看板を見ていろいろな思いに

ひたりながら、ウォーキングは続きます。

 

大物川緑地を越えて、大物主神社へ。

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横から入って。

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お参り。

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正面から出る。

 

大物橋跡。↓

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阪神間国道43号線くらいが昔の海岸線だったそうなので、

ほとんど海が間近にあったと思われます。

ごつごつとした荒々しい石です。

 

このへんで前半終わります。

後半は次回。お楽しみに~~