もりっちゃんのゆるブログ

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「柳田國男先生随行記」を読みました

柳田國男先生随行記

柳田國男先生随行記」(今野圓輔(こんのえんすけ) 著)を

読みました。

新しい本です。(2022年3月30日発行)

さらっぴんの図書館の本を大事に読みました。

この本は、毎日新聞書評欄「今週の本棚」(2022年

4月23日付)で紹介されていました。

 

民俗学に興味があるとブログにも書いておきながら、

大御所である柳田國男氏の本は「遠野物語」くらいしか

読んだことがない・・・(;'∀')

これから勉強しまっす(`・ω・´)ゞ

 

作者は1982年に逝去されている。

第一次大戦の始まった1914年に生まれ、慶応大学在学中に

柳田先生の弟子でもある佐藤信彦氏や折口信夫氏らの

講義に触れ、卒業後新聞記者のかたわら民俗学者としても

活躍されたかただ。

1941年11月、卒業間近の作者は、柳田先生の講演旅行に随行する。

そのときのメモをおこした記録が本書である。

 

いや、もうおもしろかったのひと言だ。

作者の柳田先生“愛”が尋常じゃない。

大先生のお供は大変だ。

「気がつかない」と怒られ、気を使うと「余計なこと」と

叱られる。

そんな日々を17日間も続け、

疲労困憊しながら、作者はそれでもうれしそうだ。

今朝は七時に起きた。昨夜、先生が、ひっきりなしに

咳をなさるので幾度も目がさめた。そして目ざとい

自分が嬉しかった。夜中、ひどく咳をなさるために

二度も三度も声をかけて静かに、二言、三言、ことばを

かわすとき、非常に親しい気持ちになるのであった。

(「柳田國男先生随行記」“別府から小倉へ”より)

 

1941年の12月8日が真珠湾攻撃の日だから、もう間もなく

日米開戦という時期にあたる。

そんな雰囲気が伝わる描写もある。

昨夜はほとんど眠っていない。日米交渉難航で、学校は

三ヵ月繰り上げ卒業にきまった。卒業論文作成が間に合い

そうもない。来春三月卒業が来月大晦日卒業という

気ぜわしさである。

(「柳田國男先生随行記」“木曽路から名古屋へ”より)

日米の風雲は、いよいよ急になってきた。このぶんでは、

どうでも一戦がなくては済むまい。必然の運命である。

日米交戦論が喧伝されだしたのは、私のまだ中学へもはいらぬ

ころだったが、こんどこそは、その秋がきたのではあるまいか。

(「柳田國男先生随行記」“奈良を経て京都へ”より)

 

旅行中の食事は残念ながらひどいものだったようだ。

物がない時代なのでしかたがない。

“チューリップのコーヒー”が登場する。

チューリップの球根を使ったいわゆる代用食のようだ。

食事があてにならないからか、

お供の作者は食パンを3斤、マーマレードを瓶ごと

持ち込む。

上諏訪の手前で、持参の食パンにマーマレード

いっぱいつけて先生と半ぎん食べた。

先生が、甘いマーマレードのついたパンを持って

どこかへ立たれたので、見ていると、五つばかり

後ろの席にいる男の子にやっている。そして席に

ついてからまでにこにこしておられた。

(「柳田國男先生随行記」“木曽路から名古屋へ”より)

柳田氏の子ども好きな面がうかがえる。

 

九州の小倉と長崎で講演をするのが目的だが、

全国には柳田氏に会いたい人がわんさかおられ、

その人と会ったり、報告を聞いたり、

毎日予定が詰まっていた。

汽車の車内では、窓から見える景色を解説され、

そうでなければ本を読んでおられる。

作者は柳田氏の言葉を、氏の目を盗んでメモし、

文字におこしていた。

だからもちろん正確ではないかもしれない。

でも、柳田氏と作者も含めた多くの弟子や後輩との

師弟関係のあたたかさは十分感じることができる。

 

私自身は、卒業後に恩師と交流した経験がほとんど

ないので、もう少し接点をもっておけばよかったかな

と後悔も覚えた。

 

柳田氏の講演内容も載っているが、正直むずかしい・・・

民俗学そのものについては、まだまだ不勉強で、

ここに述べるようなことは何もない。

まあ、ぼちぼちやりまひょ(*^^*)