久しぶりの晴れ🌞 やっと洗濯物が乾きそうです👕
3月も最後の週になりました。4月から環境の変わる人も多いでしょうね。
進学、就職、転勤、引っ越し。どうぞゆっくり馴染んでいってくださいね。
新しい世界が広がりますように・・・✨
「雪国」(川端康成 著)を読みました。
昨年、作者の川端康成没後50年ということで、新装版が新潮文庫から出ました。
あれっ、こんな表紙だったっけ?と思われた方もいるのでは。
ぶるぶるMusaoさんのブログ記事を読み、何十年ぶりかで再読することにしました。
手持ちにあるか調べて、ないことを確認し、「古都」「山の音」とともにネット注文。
注文した後で、角川文庫の「雪国」を発見・・・💧
がーん😨 やってしまった。
まあいいや。とても素敵な版画が表紙になっているから(^^ゞ
旧版の解説(伊藤整氏)もそのまま残され、新たに堀江敏行氏の解説が入っています。
川端康成は日本の近代文学では一番好きな作家です。(ただ一番が二人います。どちらか一人に決められないんです)
なぜこんなに魅かれるのか、今回書ければと思います。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
(「雪国」より)
あまりにも有名な冒頭部分。その雪国、舞台は越後湯沢温泉(作中には書かれていないがそう推測される)。年代は昭和6年(トンネル開通)から作品が発表された昭和11年の間。
主な登場人物は、島村という男と駒子という若い芸者、葉子という若い女の3人だ。
島村には妻子がいて、親の財産を食って暮らす生活をし、駒子という芸者と知り合って恋仲になっている。冒頭は、その駒子に会いに行く島村が汽車の中で葉子に出会う場面である。
ストーリー、あえて言ってしまえばこれだけである。もちろん最後にクライマックス的な出来事が用意されているが、それによって何か変わったかと言えば、何も変わらないように思える。
つまり、この冒頭の場面数ページを読めば、ほぼこの話の行く末がぼんやり予想できる、そんな小説なのである。
この作品に惹かれる理由は、五感に訴えかけてくる表現、感覚表現がまず挙げられると思う。
冒頭の一文は次のように続く。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
(「雪国」より)
“夜の底が白くなった。” すごい表現だと思う。この2文で読み手を一気に雪国に連れて行ってしまう。
雪深いところはモノトーンだというが、かえって色彩が際立つのかもしれない。駒子の白粉、赤くなった頬。秋には、萱の穂が銀色に光る。
視覚だけではない。
葉子は“悲しいほど美しい声”の持ち主だ。これは何度も繰り返され、島村が葉子に惹かれていくのがわかる。
悲しいほど美しい声とは、どんな声なのか。
島村は感覚の鋭い人物として、周りの全てを感覚的に語るのだ。
読み手が想像した感覚は、作者の、島村の感覚とは違うかもしれないが、読み手だけの「雪国」の世界がそこには展開される。それが映画やアニメを見ているようで心地いいのだ。
もう一つは情感だろう。
一文は決して長くなく、難しい言葉もない。会話文も多い。しかしたまにとんでもなく長い文が出てくる。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
(「雪国」より)
これで一文だ。ページの半分以上を占める。
これを読んで、島村はだらだらとはっきりしない男なんだろうと私は勝手に思うのである。(笑)
理屈ではわかっていてもままならないことがある。暮らしにおいても仕事においても恋愛においても。
口にすることと真反対の思いのこともある。ずるいと思っていても優しくすることがある。
そのへんのもやもやとした情感がこの小説には溢れている。
笑いながら泣いていて、死んだ心で生きている。
現代ではもう過去の情景になってしまったかもしれないが、雪国の厳しい暮らし、温泉街の様子、女性がまだまだ生きにくかった時代の風景がそこにある。
具体的に説明されていない状況的なことは巻末の注解を読んで補わないと、現代を生きる者にはわからないことも多い。
しかし、人の抱く情感は時代が変わっても伝わってくるように思う。
今回、「雪国」と一緒に「古都」と「山の音」も購入したので、この2作も読みたいと思っている。