もりっちゃんのゆるブログ

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「薔薇の名前」(下)を読みました

昨日は午前中雨が残り微妙なお天気でしたが、「阪神電車の沿線そぞろあるき」に参加してきました。その報告は百舌鳥古墳群ぼっちハイクPart2のあとでアップします。(^^)/

今日は打って変わって晴れ🌞 気圧の差か、少し頭痛がしています・・・

それと筋肉痛も・・・👣

 

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前」(下)(ウンベルト・エーコ 著/河島英昭 訳)を読みました。

前代未聞の大作、やっと読み終わりました。

本の帯にはこんなコメントがー

何という書物、驚くべき小説・・・分類不可能な、前代未聞の作品! 壮大で、形而上的で、しかも熱い血の流れる人間が生き生きと描かれ、重厚でいて、遊びの精神に満ち溢れ、知的でかつ娯楽性をあわせもった傑作。虚と実のないまぜ、引用の絢爛たる織物・・・最低二度は読み通さねば、本書を読んだことにはなるまい・・・

(《リール》より)

そう言われても、再読する勇気と根気が・・・今はない・・・

 

上巻の記事で“ミステリーの体裁”と書いたが、確かにミステリーとしてしっかり成り立っている。主人公(語り手)のアドソがワトソン役で、修道士のウイリアムがホームズ役として事件の謎を解くという形が然り。

(アドソという名前もワトソンを連想するし、ウイリアムはバスカヴィルのウイリアムと呼ばれ、バスカヴィルからはホームズを連想する)

修道僧が次々と謎の死を遂げ、一人は自殺だったがあと4人は間違いなく殺されているという設定が然り。

舞台の修道院は急な山の上にあり、そう易々と入り込めない環境にあること然り。

(柔らかなクローズド・サークルと言える)

修道院にそびえ立つ塔の最上階には、限られた人間しか入ることのできない“文書館”があり、殺された者はどうもその“文書館”とその蔵書の秘密に関わっているという謎が然り。

イリアムがアドソを従えて他の修道僧に“聞き込み”をする様子は、現代の刑事の聞き込みのようだし、その内容が伏線となって最後にはきちんと回収される。気持ちのいいくらいに。

だからミステリー作品として十分に完成された作品である。

 

が!

そのミステリーな部分を除いた残りが、それと同じかそれ以上の分量(ページ数)ある。

その残りは、ざっくり書けば、中世ヨーロッパの歴史、ローマ・カトリック教会修道院の歴史、ギリシアからローマ、中世の哲学、神学、文学の内容・・・といったところ。

私は“残り”と表したが、こちらがこの作品のメインなのではないかとさえ思う。

この“残り”が、犯人が殺人を犯した背景であり、「薔薇の名前」の中でもう一つの物語が紡がれている気がするのだ。

もう一つの物語の中では、主人公が文書館の中で息をひそめている書物になるんじゃないか。書物自体が意志を持ち、自分たちを守ろうとしたのではないかーそんな気がする。

 

(前略)文書館はいっそう巨きな不安の塊りのように見えた。どうやらそこは、何百年もの長きにわたって、ひそかな囁きの場であり、羊皮紙と羊皮紙が交わしてきたかすかな対話の場であり、文書館は一種の生き物であり、人間の精神では律しきれない力の巣窟であって、多数の精神によって編み出されてきた秘密の宝庫であり、それらを生み出した者たちや媒介した者たちの死を乗り越えて、生き延びてきた、まさに秘密の宝庫なのであった。

(「薔薇の名前」(下)“第四日 三時課”より)

 

「書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、私たちは問題にしなければならない(後略)

(「薔薇の名前」(下)“第四日 終課の後”より)

 

本のタイトル「薔薇の名前」は最後の最後に登場する。

(この言葉は映画でもエンドロールの直前で流されたそうだ)

<過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名が今ニ残レリ。>

(「薔薇の名前」(下)“最後の紙片”より)

ラテン語では

<Stat rosa pristina nomine,nomina nuda tenemus>

となる。

このタイトルの謎解きは私には難しすぎてわからない。

それこそ再読を重ねなければ自分の答えを見つけることはできないだろう。

めったにない読書体験だった。