もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「青銅の悲劇 瀕死の王」を読みました

昨日は何ヵ月ぶりかで遠出してきました。

次の記事で詳細をアップします。

 

青銅の悲劇 瀕死の王

「青銅の悲劇 瀕死の王」(笠井潔 著)を読みました。

 

太い、ぶ厚い本なんです。772ページ。

読んでも読んでも進まなくて・・・大変でした💦

f:id:moricchan24:20211118145442j:plain

 

副題の“瀕死の王”とは、昭和天皇を表しています。

1988年11月5日から1989年1月9日までの約2か月間のお話です。

1989年の1月7日に当時の天皇陛下崩御、昭和が終わり、

世は平成となったのでした。

1989年の1月7日は何曜日だったか、覚えていますか?

私のこの日の記憶は、休日出勤した日だったということです。

休日だったので、土曜か日曜。

日曜は休みたいのでたぶん土曜だったのでは・・・

出勤時、新聞の号外を手にし、それをオフィスで読んだ覚えが

あります。

私の他にもう一人休日出勤している先輩がいました。

たんたんと仕事をしていて、特に感慨を覚えた記憶はありません。

でも、この本を読んで一番に思ったことは、

昭和という時代は長く、その時どきをいくつ(何歳)で生きたのかによって

感じ方がかなり違うということです。

1989年1月7日は土曜日でした。

 

物語の主人公は、探偵小説や伝記小説を書く作家、

宗像冬樹(むなかたふゆき)。

1948年生まれの40歳(1988年当時)です。

10代後半から20代に学生運動に参加し、逮捕歴もある過去を

持っています。

宗像が知り合いのイラストレーター北澤雨香(きたざわうか)を

通じて、北澤家の遠縁、鷹見澤(たかみざわ)家の盗難事件に

関わる中で、重大事件に遭遇するストーリーです。

鷹見澤家は、当主である信輔、妻の治代、長男の浩輔、嫁の祥子、

孫の洋輔と緑、そして信輔の弟の隆夫の7人家族。

鷹見澤家の悲劇は、小さな盗難事件から始まり、信輔の毒殺未遂、

浩輔の殺害、洋輔の失踪・・・と続きます。

宗像は、北澤雨香の息子の響(ひびき)、響のフランス語の先生、

ナディア・モガールと共に事件を推理するが・・・

 

誤解を恐れずに言えば、

本格推理小説の中で、論理的に事件を解決しようとすれば、

こんな分厚い長さになってしまうのですよ、という小説、かな。(笑)

登場人物が嘘をつく。

誰かをかばってわざと関係ない証拠を残す。

嘘をつくつもりはなくても、誤解をして変な行動、証言を

してしまう。

など、犯人以外の人物の証言や行動を100%信じて推理はできない。

となるとフローチャート図のように推理が枝分かれして、

どこかで矛盾をおこすまでその可能性は残る。

 

これだけのページ数をかけても、この事件の犯人を論理的に

“落とす”ことはできなかった。

結局は肉親の情による自白によったのだ。

家族の悲劇を起こしておいて、最後は家族のために自白をする。

矛盾に満ち、むなしさを覚える。

 

この本は、エラリー・クイーン著「ギリシャ棺の秘密」の

解説文の中で、

“「後期クイーン問題」に挑んだ作品”

として挙げられていた一作でした。

後期クイーン問題」はそのとき初めて聞いたのでネットで検索しました。

それでもよくわかりません・・・(-_-;)

本格推理作家はこんなことを考えているのか~と思いました。

難しいです・・・(私の頭が悪い)

そのさわりの部分を、私の記憶と記録のために引用しておきます。

  ↓  (さわりというのに長くてすみません)

従来のミステリの犯人は、凡庸な警官を欺こうとしていました。

そして、名探偵ならば、凡庸な人間を騙すための偽の手がかり

などは、簡単に見破ることができたわけです。

しかし、名探偵に匹敵する頭脳を持つ犯人が、名探偵を騙そうと

偽の手がかりをばらまいた場合、名探偵はそれが偽物だとわかる

のでしょうか? いいえ、わからないのです。

なぜわからないのでしょうか? それは、犯人の立場が作者と

同じだからです。作中の探偵にとっては、犯人と作者の区別が

つかないからです。

本格ミステリの作者は、名探偵が突きとめる真相を考え、

その真相を解き明かす推理を考え、その推理を導く手がかりを

作中にばらまきます。

一方、本作の犯人は、名探偵に突きとめてほしい偽の真相を

考え、その真相を解き明かす偽の推理を考え、その推理を導く

偽の手がかりをばらまきます。

ーどうですか? 真偽を除けば、まったく同じ行為であることが

わかるはずです。

この状況で、作中人物にすぎない名探偵が、どうすれば

手がかりの真偽を判断できるというのでしょうか?

作品の外にいる作者と、作品の中で作者を装う犯人を、

どうすれば区別できるというのでしょうか?

この問いに対して、「できない」と答える人が大部分ですが、

「できる」と答える人もいないわけではありません。

本書を読み終えた後で、どちらが正しいのかを、みなさんも

考えてみてください。

(「ギリシャ棺の秘密」“解説”より

 

探偵小説の犯人は捜査側を誤導するため、しばしば偽の証拠を残す。

偽の証拠だと探偵が見破りうるのは、そうなるように作者が仕組んで

いるからにすぎない。他の問題系と照合することで証拠の真偽を

めぐる決定不能性は回避され、メタレヴェルへの無限後退

かろうじて阻止される。いい換えれば探偵小説の作者は、物語を

固定化されたレヴェルに封じこめるために作為している。

でなければ証拠や手がかりから出発する確実な推理で、唯一の

真実に到達するという読者との約束を守ることができないからだ。

(「青銅の悲劇」“終章 薄暮の広場”より)

 

後期クイーン問題」については結局まだよくわかりませんが、

“挑んだ作品”に挙げられていた本がまだあるので、探してみようと

思います。 (←懲りない奴)