もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「病魔という悪の物語」を読みました

おとといの金曜日、背の高い扇風機を押し入れから出し、

ついでに(と軽い気持ちで)押し入れの中を片付ける

ことにした。

ヘロヘロになり、夕方には腰痛もでてきて、動けなく

なってしまった。

ほんとに体力が落ちた。

自分にげんなりし、一日がんばったわりに片付いて

いない押し入れを見て、ますますげんなりする。

 

フリフリのレースが付いた真っ白のエプロンが2枚。

たぶんお祝いでいただいたものだ。何回か着たが、

さすがにもう着ないと思い処分することにした。

レースはきれいなので、ほどいて置いておくことにする。

こうやってこまごましたものが増える・・・

 

病魔という悪の物語 ──チフスのメアリー (ちくまプリマー新書)

「病魔という悪の物語 チフスのメアリー」(金森修 著)を読みました。

昨年コロナの感染が始まったとき、話題に上った本です。

そのため、2006年に刊行された本書が昨年復刊されました。

2020年7月11日(土)、毎日新聞書評欄「今週の本棚」で

紹介され、すぐ図書館に予約をしましたが、市に1冊しかなくて、

やっと今回ってきました。まだ私の後にも予約がついています。

 

とても読みやすく、わかりやすく、中学生以上で習う漢字には

ふりがながついているので、小学校高学年からでも読めるのでは

と思います。

作者は東大大学院の先生で、専門は科学思想史・科学史

難しいことをやさしく、簡易なことばで説明するのは本当に難しい。

それを実現した本を読むと、やった!👍と思います。

 

1869年に北アイルランドに生まれたメアリー・マローンは、

1883年アメリカに家族で移住してくる。

メアリーは複数の家庭で賄い婦として働く。

メアリーが37歳のとき、彼女が働いていた家庭で腸チフスの患者が

発生する。死者も出た。

メアリーは保菌者として隔離施設に入り、3年間発症しないまま

隔離生活を送る。

彼女は自らの解放を求め、支援者の支持も得て、

「(感染を防ぐため)今後料理人をしない」ということを

条件に解放される。

ところが・・・・

メアリーの物語はここからが肝心だと思うが、いったんここまでで

気になることを書いておく。

 

まず、腸チフスは腸チフス菌という細菌の感染によっておこる、

伝染病で、主な感染経路は経口感染だ。

食べ物や飲み物に付いた菌が口から体の中に入るパターンが多い。

メアリーが生きていた1800年代後半から1900年にかけては、

病原体の発見や治療方法、衛生環境などが改善されはじめる時期で、

そんな激動の時代だったということ。

それでもまだ特効薬やワクチンもなく、感染し発病したら

死に至った伝染病も多く、恐れられていたこと。

アメリカに世界中から移民が来て、そんなコミュニティができて

いたこと。

そんな中、伝染病が発生したら、患者を隔離し、周りの人の

感染の有無を調べ、消毒し、それ以上感染を広げないようにする

ことが、当時は一番だったのだ。

 

本書の“はじめに”に、作者が読者に一番考えてほしいことが

書かれている。

社会に住む不特定多数の人たちの命を救うためなら、

一人の人間、または少数の人間たちの自由がある程度

制限されても、仕方のないことなのか。

(略)少し難しくいいかえるなら、個人の自由と全体の福祉とが、

互いに相克関係にあるとき、それをどのように調停したらいいのか、

ということだ。

(「病魔という悪の物語」“はじめに”より)

この答えは今もない。現在のコロナ禍がそれを表している。

 

解放後のメアリーは、しばらくは紹介された料理人以外の仕事を

していたが、5年後再び料理人として働き、腸チフス患者を

出したとして、再度拘束され隔離生活を送ることになる。

なぜ、してはいけない料理人として働いたのか。

以前と違い、自分は発症しない感染者(文中では健康保菌者)で

人に感染させるかもしれないことを知っていたのに。

2度目の拘束では、メアリーへの批判が厳しく同情も得られず、

メアリーは終生隔離施設で過ごすことになった。

 

健康保菌者はメアリーだけではもちろんなかった。

メアリーが健康保菌者の1番目だったことと、

アイルランド系の移民だったこと、

カトリックだったこと、

貧しい賄い婦だったこと、

女性だったこと、

独身だったこと、などメアリーの社会的条件が不利に働いた

と作者は言う。

メアリーは「チフスのメアリー」として小説の題材にもなり、

チフスのメアリー」ということばだけが「人々を料理を通して

殺していく」悪魔の存在としてひとり歩きしていった。

 

「私がメアリーなら絶対料理人はしない」と言うことは簡単だ。

メアリーがどんな状況だったのか、どう思っていたのか、

隔離生活が与えた影響は? など周りの人にはわからない。

是か非か、善か悪か、二元論で語れることではない。

そのうえで、“おわりに”ではこう語られる。

恐ろしい伝染病が、いつ社会に蔓延するかは誰にもわからず、

もしそうなれば、電車で隣に座る人が、恐ろしい感染の源泉に

見えてこないとも限らない。

(略)

この生物学的な恐怖感が私たちの心の奥底に住み着き、

いつその顔を現すかはわからない状況が、人間社会の

基本的条件なのだとするなら、未来の「チフスのメアリー」を

同定し、恐怖を覚え、隔離し、あざけり、貶めるという構図は、

いつ繰り返されてもおかしくはない。

(「病魔という悪の物語」“おわりに”より)

 

繰り返すが、この本は2006年3月発行、コロナ禍の前の本だ。

個人の自由と公共の福祉。

この天秤のつり合いをどうとるか、今私たちは判断を問われている。