中学2年のとき、国語の教科書でであった「一切れのパン」というお話に
ついて、昨日の続きです。
今まで忘れられなかった理由は、やはりラストの意外性です。
最後のシーンの挿絵は、「私」の奥さんがびっくりして両手で口を覆っていたと思います。
そして「私」は呆然としていました。
「私」にとって、ラビのくれた一切れのパンは、初め飢えに耐えるお守りのような
存在でした。
そしてだんだん自分を保つための最後の砦のようになっていきます。
「私」は「ありがとう、ラビ」とラビへの感謝の言葉を口にしますが、
もし、「私」が家に到着するまでにパンの包みを開けていたら・・・
「私」は飢えをしのぐこともできず、落胆し、無事に家にはたどり着けなかったかも
しれません。
ネットには「ラビは詐欺師だ」という意見もありました。
パンだと言って渡したのに、パンではなかったのですから、
パンの包みを開けたとき「だましたな、ラビ!」と恨むことになるという意見です。
また、「こういう人間を育てたい」という教育観がうかがえる教材だと
いう意見もありました。
具体的にことばで表すのは難しいですが、
教科書に載っている作品なので、そういう教育的側面はあると思います。
中学の頃「アンネの日記」などを読み、第二次世界大戦中の悲劇を知り始めました。
「一切れのパン」の背景は難しいけれど、ざくっとそういった悲劇の一つとして
受け止めました。
今から思うと、小6の教科書にあった「最後の授業」(アルフォンス・ドーデ作)とともに、
心に残る作品となりました。
教科書の作品に影響を受けた私は、ある意味政治的、歴史的、教育的にかたよった
考えを持った(持たされた?)のかもしれません。
教科書は恐いですね〜〜
ラビは「私」を救おうとして「一切れのパン」を「私」に与えたと信じる
私は、自分にとっての「一切れのパン」を心に抱いて強く生きていきたいと
改めて思っています。