もりっちゃんのゆるブログ

楽しく、でも真面目に。 そんなブログを書いています。

「対岸の彼女」を読みました

今日はいつものクリニックに薬をもらいに行きました。

主治医に、「7月か遅くても8月にはワクチンの接種券が送られて

くると思うから、来たら言ってな」と言われました。

「ホンマですか?」と思わず言ってしまいました。

まあ、ホンマにその頃来たとしても、実際接種できるのはまだ先

だろうし。過度に期待しないでおこう(笑)

 

それにあんまり報道もないけど、ワクチンの効果(抗体)はいつまで

もつんや?

今年中に接種できても、来年どうなってるか誰にもわからん。

わからんから、どうしても刹那的に考えてしまう。

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女」(角田光代 著)を読みました。

2005年第132回直木賞を受賞しています。 

角田氏の作品はいくつか読んでいますが、この作品は初読です。

帯には以下のようにあります。

女の人を区別するのは女の人だ。既婚と未婚、働く女と家事をする女、

子のいる女といない女、立場が違うということは、ときに女同士を

決裂させる。

おとなになったら、友達をつくるのはとたんにむずかしくなる。

働いている女が、子どもを育てている女となかよくなったり、

家事に追われている女が、未だ恋愛をしている女の悩みを聞いたりする

のはむずかしい。高校生のころはかんたんだった。

いっしょに学校を出て、甘いものを食べて、いつかわからない将来の

話をしているだけで満たされた。けれど私は思うのだ。あのころの

ような、全身で信じられる女友達を必要なのは、大人になった今なのに、

と。(角田光代

まさにその通り! と30代の私なら叫ぶだろう。

身近だった女友達が、気がつくと対岸にいた。手を伸ばしても届かない。

そんな思いを何度もした。

だが今は思う。

私自身は川を流れる小舟で、あちらとこちらの岸を行ったり来たり

しているだけだったのだ、と。

友達が対岸に行ってしまったのではない。私が舟に乗って

フラフラしていただけなのだと。

 

それに時代は2005年からたった15年余りでもだいぶ変わった。

登場人物のひとり、楢橋葵の高校時代の描写で「国鉄駅」という

ことばが出てくる。

はっきり年代は書かれていないが、彼女ら(葵と小夜子)が

2003年(雑誌『別冊文藝春秋』連載時)に35才と仮定したら、

(葵が30半ばという描写がある)

1968年生まれになる。

国鉄民営化(JR発足)が1987年4月1日。彼女らは19才。

だいたい合ってるんじゃないかな。

角田氏は1967年生まれ。私はそれよりもうちょっと上の世代。

ケータイもなくインターネットもない。

就活も婚活も妊活も保活も情報は雑誌か口コミ。

そんな時代から、葵と小夜子の現在(2003年)は携帯メールの

時代になっている。

そして、2021年はさらに20年近く経っているのだ。

女性の仕事や子育ての状況はかなり変わっている。 

だから時代や環境は古くささを禁じ得ない。

問題は、女性の心の中、思いだ。

今の30代の女性はどう感じているのかな。

 

と、ここまでは帯の文章と読み始めの頃の思い。

読み終えると、また違った思いも増えた。

20年前なら私はもう40代に突入しているけれど、その頃に読んでみたかった。

それでも年を重ねた今の思いがいくらでもあふれ出てくる。

こういうストーリーを越えて訴えかけてくる小説が好きだ。

失礼ながら、この頃の角田さんも若いな、ストレートだな、と思う。

 

言葉を交わしているうち少しずつ、彼女が殻を割りその割れ目から

こちらをまっすぐ見据えるような感触があった。高校生のときの

自分を思い出さずにはいられなかった。小夜子としゃべっていると、

自分が記憶のなかのナナコを演じているような気分に、ときおり

葵は襲われた。

(「対岸の彼女」より)

対岸の彼女」というタイトルは、帯文で私が想像したようなことは

誰でも想像するし、そう遠くはないと思う。

作中にはラスト、「対岸の彼女たち」ということばで現れ、

その意味がわかる。

 

他にも心に残ったセリフがある。葵のセリフ。

「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす

影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのが

こわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいても

こわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、

うんと大事な気が、今になってするんだよね」

(「対岸の彼女」より) 

 ちょっとどきっとします。

 

小夜子の夫と姑のことばは、かなりひどい。

でも20年前は普通だったろう。

それに全く悪気はないのもわかる。だからたちが悪い。

「そんな気はまったくなかった」

「そんなつもりはなかった」

今まで何度自分の夫からも聞いただろう。

何度小夜子や葵と同じ涙を流しただろう。

でもめげてはいけない。

強く強く励まされた。

 

川の流れに流されるのではなく、自分で櫂を持って漕いでいく。

自分の舟は自分で制御しないとあかんのや、と

人生の終盤に近づいてその思いに至ったダメな私です(笑)

 

「すごいぜ!菌類」を読みました

なんだかな~ 5月、長いよ。

ワクチン接種もなんか遠いこと・・・

自分が予約できるようになるのは、いつになるのか全然わからないし、

今の接種会場や予約方法については変更されるかもしれないので、

わざと覚えないようにしています。

わざと覚えないというのも変ですが、知らんふりをしておくというか。

そうじゃないとどうしても巻き込まれる。情報に。

心の状態を平常に保つためにはそんなシャットダウンも必要だと

思っています。

 

すごいぜ! 菌類 (ちくまプリマー新書)

「すごいぜ!菌類」(星野保 著)を読みました。

以前「菌根の世界」を読んだ後、もう菌根の世界には足を踏み入れない

だろうと思いましたが。

何を血迷ったか、よく似た本を借りてしまいました(^^ゞ

 

「菌根の世界」では菌根菌という菌類の一部を、詳しく紹介して

ありましたが、今回の「すごいぜ!菌類」は菌類という広い分野を

説明しています。(菌根菌の紹介もちょこっとありました)

 

内容より前に、この作者のかた、私より1才年下のほぼ同世代

なんですが、文章の書き方が気になって内容が頭に入らない・・・

菌類に興味を持ってほしいという気持ちはわかるけれど、

自虐的なのがとても気になる。

しょっぱなからこんな感じ。

身近な微生物は、あきらかに“役に立つ”発酵を除いて、“ばい菌”と

ディスられるか、病原菌として恐れられる。

(「すごいぜ!菌類」第一章より)

ディスる”ということば、最近よく聞くが好きではない。

否定的な意味を持たせる英語のdis-という接頭辞から、または

disrespect(無礼をはたらく)から来たスラングだそうだが、

まさに否定的なイメージが強いことばだからだ。

そして、自虐的に受け身で“ディスられる”と使われることも多い。

この本の中でも何回か“ディスられる”という言い回しが出てきた。

 

もうひとつ、( )が非常に多く、( )の中が長いという

特徴も気になった。

( )の中を読んでいる間に、( )の前の文脈を忘れてしまい

読み直すことがたびたびだった。

私も記事に( )を使うことが多いので気をつけようと思います。

 

ディスる”ということばが嫌いだと言いながら、

文章について批判的なことを書いてしまったが、作者の

菌類に興味を持ってもらいたい、菌類のすごい部分を伝えたい

という思いはわかったつもりだ。

たぶんこういう作風なんだろう。

「おわりに」で作者はこう言っている。

この原稿執筆時の2020年4月は、コロナ禍と称されるCOVID-19

の全世界的な流行により、全国に緊急事態宣言が出された

真っただ中にある。科学解説書にふざけた文章も入れて大丈夫なのかと、

こんな私でも迷う気持ちも正直ある。だがユーモアは、

(肝機能の衰えや故障だけではなく)心に余裕があって初めて

成立するコミュニケーションツールだ。感情に流されず、冷静に状況を

判断するだけでなく、合理的な客観と感情的な主観の折り合いを

計る重要なスキルだと思う。

(「すごいぜ!菌類」おわりに より)

 

そうだなあ。私の方が心に余裕がないのかも。

反省!

 

「ローマ人の物語 Ⅳ」を読みました

雨が降り続いて、昨日は警報も出ました。

やっと雨が上がり、洗濯物を外干ししています。

昨日は大雨の中美容院へ行き、夏向きにばっさりカットしました。

首がすぅすぅします(笑) 

 

ユリウス・カエサル ルビコン以前──ローマ人の物語[電子版]IV

ローマ人の物語 Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前」(塩野七生 著)

を読みました。

ローマ人の物語」シリーズの第4巻。

いよいよユリウス・カエサルの登場です。

英語読みだとジュリアス・シーザーシェイクスピアの戯曲でも

有名ですね。

 

外国語の地名や人名はもともとの読み方に戻ろうという動きが

あって、私が10代で覚えた名前と今は変わっていることが

多々あります。

たとえば、以前ブログにも書いたフランシスコ・ザビエル

今はシャビエルと表記している教科書もあるそうです。

何か別人みたいでぴんときません。

 

ユリウス・カエサルラテン語読み。本書の表記通り、今回は

カエサルと書きます。

正式な名前は、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)

と言い、ユリウス一門のカエサル家のガイウスくん、という

意味なんですが。

古代ローマで貴族男子のファーストネームはすごく種類が少なくて、

父も祖父も叔父も全く同じ名前ということがバンバンあります。

ちなみに女性に名前はありませんでした(T_T)

通称として、一門の名前が使われていました。

カエサルの母は、アウレリウス・コッタ家の出身なので、

アウレリアと呼ばれました。

 

それから副題の「ルビコン以前」が?でしたが、これは

河の名前でした。ルビコン河。

カエサルガリア戦役を終えて、ルビコン河を越えるまでが

この前編になります。(B.C.100年~B.C.49年1月)

 

ローマは、(中略)勝者が敗者を軍事力で押さえこむことで

支配し搾取するやり方ではなく、勝者のほうが敗者を同化し、

共生状態にもっていくというやり方によってであった。

(中略)

ローマ人の性向は、しばらくは争っても結局は、共存共栄の

方向に向かうのである。これが、ローマ人に帝国創立とその

長期の維持を許した要因ではないか。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第二章 少年期”より)

カエサルの中には上記のような土壌がもともとあって、その上に

彼独特の野心が育っていったのだろう。

 

どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられた

そもそもの動機は、善意によったものであった。だが、権力が、

未熟で公正心に欠く人の手中に帰した場合には、良き動機も

悪い結果につながるようになる。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第四章 青年後期”より)

結果で判断されるのはつらいけれど、歴史に残るのは結果ですから

ね~

 

カエサルはそれほどの美男ではないのに(失礼!)、

非常に女性にモテたそうです。 

イタリアのある作家によれば、「女にモテただけでなく、その

女たちから一度も恨みをもたれなかったという稀有な才能の

持ち主」であったカエサル(後略)

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第四章 青年後期”より)

まじか・・・ 

 

モテモテ男で有名だった青年カエサル、大借金男としても

有名でした。 

ユリウス・カエサルは他人の金で革命をやってのけた、(後略)

(「ローマ人の物語Ⅳ」“青年後期”より)

「(前略)

あの人(註:カエサル)は、カネに飢えていたのではない。他人の

カネにしてしまうつもりもなかった。ただ単に、他人のカネと自分のカネ

を区別しなかっただけなのだ。(後略)」

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より)

 

以下はカエサル人間性を表した部分。 ↓

彼(註:カエサル)は、部下を選ぶリーダーではなかった。

部下を使いこなす、リーダーであった。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より) 

ローマ人は、その中でもローマ人であることを強く意識する

カエサルは、誓約をことのほか重要視する。多神教のローマ人だから、

神との契約ではない。人間同士の誓約である。たとえ異人種でも

対等の人間と認めるがゆえに、交わされた誓いを信ずるのである。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より) 

カエサルの野心は、人並以上に大きい彼自身の虚栄心よりも、

もっともっと大きいのだった。

(註:虚栄心は他者に良く思われたい心。野心は他者に良く思われなくても

やりとげなくてはならない想い)

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より)

 

本書の約半分が、カエサル42歳からの“ガリア戦役” に費やされている。

ただし、将棋であろうがチェスであろうが、ゲームと戦争は根本的な

ところでちがう。ゲームの駒は思いのままに動かせる木片にすぎないが、

戦争での駒は、感情を持つ人間である。ゆえに、形に現れにくく数でも

計りがたい要素を、考慮に入れなければ闘えない“ゲーム”なのだ。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より) 

私には、戦闘も、オーケストラの演奏会と同じではないかと思える。

舞台に上がる前に七割がたはすでに決まっており、残りの三割は、

舞台に上がって後の出来具合で定まるという点において。

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より)

しかし、内戦の悲惨とは、その犠牲になって死んだ人の数ではない。

犠牲にされたことで生まれる、恨み、怨念、憎悪が、後々まで尾を

引いて容易には消え失せないことにある。

(「ローマ人の物語Ⅳ」 “第五章 壮年前期”より)

 

そして、ガリア戦役を終えたカエサルはいよいよローマの体制と

対峙する。 

「ここ(註:ルビコン河)を越えれば、人間世界の悲惨。

越えなければ、わが破滅」

そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向かい、迷いを振り切るかの

ように大声で叫んだ。

「進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ、

賽は投げられた!」

(「ローマ人の物語Ⅳ」“第五章 壮年前期”より)

ユリウス・カエサルといえば、

「賽は投げられた」

「来た、見た、勝った」

「ブルータス、お前もか」

の引用句が有名。

この中の「賽は投げられた」がここで出てきました。

カエサルルビコン河を越えるとき、兵士に向かって呼びかけた

ことば。

ここからローマは内乱状態に入ります。

 

456ページの分厚さでしたが、おもしろくて何とか読み進むことが

できました。

二千年以上のあいだ、人を引きつけてきたカエサル

その魅力が十二分にあらわされた前編でした。

カエサルはこのあと5年後、55歳で亡くなります。

あと5年かと思うと淋しい思いがします。

ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以後」に続きます。

 

「あの家に暮らす四人の女」を読みました

近畿地方も東海地方とともに日曜日に梅雨入りしました。

それからずっと雨☔です・・・

掃除機をかけていると汗だくになったので、これまた汗だくで

扇風機を出しました。

だんだん夏モード。 

 

あの家に暮らす四人の女 (中公文庫)

「あの家に暮らす四人の女」(三浦しをん 著)を読みました。

図書館の書棚(きょうかえってきた本の棚)で見つけた本。

2013年11月~2015年4月まで『婦人公論』に連載され、2015年7月に

発行されています。

 

東京の杉並区にある古い洋館に暮らす4人の女のお話、

というまさにタイトルそのまま、ど真ん中なんだが。

半分過ぎたくらいから怪しげな雰囲気になってくる。

ん? これはオカルトなのか?

 

古い洋館の持ち主は牧田鶴代、佐知の親娘。

鶴代は家付き娘。娘の佐知は30代後半で独身。家で刺繍教室を

開き、作品の販売で生計をたてている。

そこに2人の女、谷山雪乃、上野多恵美が同居してきて

4人暮らしになっている。

なんだけど、実はもう一人敷地内に元使用人の山田という

初老の男が通称「守衛小屋」に住んでいるのだ。

 

三浦しをん節があちらこちらで炸裂する愉快な話だが、

そこはさすが、愉快だけでは終わらせない。

汗と涙と女のドロドロ?がスパイスになっている。

特に最後の1ページ。あー、読んでよかったなあとしみじみする。

 

実はわたくし、30代後半から40代にかけて、将来は

この小説の世界のように他人同士の女ばかりで暮らして

みたいと思っていました。

イメージはシェアハウスのような感じです。

夫婦ももともと他人同士なんだから、別に構わないんじゃないかと。

別に夫と別れたいと思ってたわけではありませんよ。(笑)

ただ女ばかりで暮らすのもいいなあと思い描いていただけです。

まあ実際に実行するのは無理。

家はどうすんの。今暮らしている家族はどうすんの。

お金はどうすんの。仕事はどうすんの。

たぶん、家族で女が私だけなので、女の話し相手を欲して

いたのかなと思います。

そして今は、話し相手は女に限っていたわけじゃないことも

わかりました。

自分の考えていることを普通に話せる相手を求めていたのだと

思います。

そしてそんな相手はそうそう見つからないのだということも

わかりました。

この小説を読んでその思いも強くなりました。

 

ちなみに表紙の黒い鳥は、はいカラスです。(ハシボソガラス?)

このカラスにもちゃんと名前があります。

そういう意味ではまだまだ登場人物(人とは限らず)が

いますねえ~(笑)

 

「ローマ人の物語Ⅲ」を読みました

九州・四国・中国地方が梅雨入りしました🌂

ずいぶん早いです。これは近畿も遠からず・・・ 

 

勝者の混迷──ローマ人の物語[電子版]III

ローマ人の物語Ⅲ 勝者の混迷」(塩野七生 著)を読みました。

ローマ人の物語」シリーズ3巻め。

共和制ローマがポエニ戦役後に地中海世界覇権国家となった

B.C.146年以降のローマ内の内乱

(それを塩野氏は“勝者の混迷”とあらわした)を描いている。

 

今回の表紙は、主な登場人物(グラックス兄弟、マリウス、スッラ、

ポンペイウス)の誰でもない“無名の若者の像”(カピトリーノ

美術館蔵)。

塩野氏は

意志は強固でもそれは育ちの良い品性に裏打ちされ、口許に

漂う官能的な感じは、この若者が冷血漢ではまったくなかったことを

示している。そして、哀愁が漂う。

私が第Ⅲ巻の内容を端的に示さねばならないカバーにこの顔を

使うのは、グラックス兄弟からはじまるローマの混迷の原因が、

研究者の多くが一刀両断して済ませる、勝者ローマの人の奢りでもなく

頽廃でもなく、彼らの苦悩であったことを訴えたいからでもある。

(「ローマ人の物語Ⅲ ”グラックスの時代”より)

と言っている。

確かに哀愁が漂っている。

争いに勝ったか負けたか、国が興ったか滅んだかだけだと

歴史はすべて結果になる。

でもどこにも人は暮らしていて、政治も戦争も人と人との間で

行われるものなのだ。

結果に至る人の営みがこの巻でもよくわかった。

 

勝者であるにもかかわらず、彼(註:スキピオエミリアヌス、

カルタゴを落とした司令官)は思いを馳せずにはいられなかった。

人間にかぎらず、都市も、国家も、そして帝国も、いずれは

滅亡を運命づけられていることに、想いを馳せずには

いられなかったのである。トロイ、アッシリア、ペルシア、

そしてつい二十年前のマケドニア王国と、盛者は常に必衰で

あることを、歴史は人間に示してきたのだった。

(「ローマ人の物語Ⅲ」“序章”より) 

盛者必衰・・・「平家物語」を思い出しましたよ。

 

(略)

失業者とはただ単に、職を失ったがゆえに生活の手段を失った

人々ではない。社会での自らの存在理由を失った人々なのだ。

(「ローマ人の物語Ⅲ」“グラックス兄弟の時代”より)

この弱者対策、いわゆる福祉の考え方は、古代ローマでもちゃんと

あって、食糧の援助や住宅の援助、仕事の紹介などいろいろ対策が

行われているのだが、ただ仕事があって食べていけるだけでは

人間は自分自身に尊厳を持てないのだということがわかる。

自分が社会に何かしら役割を果たせているか、自分の存在を

肯定できるかということが大事なのだ。

近代に「人権」の考え方が確立され、現代になっても、社会的

弱者への向き合い方はいまだに模索が続いている。

 

人間とは、食べていけなくなるや必ず、食べていけそうに思える

地に移動するものである。これは、古今東西変わらない現象である。

この種の民族移動を、古代では蛮人の侵入と呼び、現代ならば

難民の発生という。

古代ローマも、この種の民族移動を、ローマが存続しているかぎり

忘れることは許されなかった。

(「ローマ人の物語Ⅲ」“マリウスとスッラの時代”より)

なるほどな。難民は民族移動なんだ。

 

ローマ人が創り出した法の概念と、義理人情は矛盾するではないか

と言われそうだが、私の考えでは、思うほどは矛盾しない。

法律とは、厳正に施行しようとすればするほど人間性との間に

摩擦を起こしやすいものだが、それを防ぐ潤滑油の役割を果たすのが、

いわゆる義理人情ではないかと考える。法の概念を打ち立てた

ローマ人だからこそ、潤滑油の重要性も理解できたのではないだろうか。

(「ローマ人の物語Ⅲ」“マリウスとスッラの時代”より)

これはすごくわかります。

義理と人情の時代劇(笑)。

 

後世に生きるわれわれが古のギリシア・ローマ文明に接するのは、

二千余年を経た今でも残る壮麗な遺跡や、美術館を埋める造形芸術、

教養として教えられる哲学や歴史や文学などを通じてである。

そして、ひとたびこれら人智の結晶にふれれば、誰もが感嘆する。

なんとすばらしいものを創造したのか、と。だが、感嘆すると同時に、

疑問もいだく。これほどの洗練された文化文明を築いた彼らなのに、

なぜ、非人道的な奴隷制度には疑いさえもたずに生きていけたのか、

と。

(「ローマ人の物語Ⅲ」“ポンペイウスの時代”より) 

これは根深い問題。古代ギリシアでも古代ローマでも奴隷制度が

あった。

生まれながらの身分制度があったのだ。

18世紀の啓蒙思想で、奴隷制度の廃止を謳った法律は各国で

成立したが、

とはいえ、法律はできても人間の心の中から、他者の隷属化

に無神経な精神までが、完全に取り除かれたわけではないのである。 

(「ローマ人の物語Ⅲ」“ポンペイウスの時代”より)

と作者は言っている。

 

今回もいろいろなことを考えさせられました。

次巻はいよいよユリウス・カエサルの登場です。

図書館で確認したら、カエサルだけで2巻ありました。

読むの大変やな。

 

「刑事のまなざし」を読みました

暑くなってきました。💦

でも明日からしばらく雨が続くそうです。(+_+)

梅雨入りが早いのではという情報もあり、爽やかな季節は

今年も何もしないまま終わってしまいそうです・・・悲しい😢

 

GW中に粗大ごみを回収に出しました。

(申し込んだのは4月中)

回収日の翌日に郵便受けを見たら、

「粗大ごみが見当たりませんでした」というプリントが

入っていました。

びっくりして連絡先に電話をしたら、回収日をこちらが間違えた

わけでもなく、業者が間違えたわけでもなく、

実際に出した粗大ごみがないということは、

「盗難にあったのだろう」という結論でした。

「たまに“やっぱり要らなかった”と返却してくることがあるので

そのときは連絡してください。回収します」

とのことでした。

今のところ、“要らなかった”と返却されてはいません(笑)

ちょっと気持ち悪いというのが正直なところです。

2種類のゴミを出しましたが、両方とも電化製品だったので、

部品を転売するためではと思います。

 

刑事のまなざし 刑事・夏目信人 (講談社文庫)

「刑事のまなざし」(薬丸岳 著)を読みました。

夏目信人刑事シリーズとして読んだのは最後になりましたが、

シリーズの始まりの本です。

夏目刑事の抱える過去の事件が明らかになりました。

少年鑑別所で罪を犯した少年と向き合う法務技官だった夏目が、

刑事になるきっかけになった事件。

 

シリーズを全部読み終えたので、薬丸作品はいったん

卒業します(^^)/

 

「ローマ人の物語 Ⅱ」を読みました

今日はこたつ布団を片付けたり、冬物の服をしまったり

しました。

自転車で用足しにも行きましたが、少し人出が減ったように

思いました。事態がいい方向に向くといいなと思いました。

2週間以上、自宅とスーパー、近所の図書館分室しか出かけて

なかったので、少しですが気分転換にもなりました。 

 

ハンニバル戦記──ローマ人の物語[電子版]II

ローマ人の物語ハンニバル戦記」(塩野七生 著)を読みました。

シリーズ「ローマ人の物語」の第2巻です。

この巻は、共和制ローマフェニキア人の植民市カルタゴとの

闘争、ポエニ戦役を主に綴った約380ページです。

長かった~

何でローマとカルタゴの戦争をポエニ戦争と言うんだっけ?

と、まずここから。

ポエニはラテン語で「フェニキア人」のこと。

ローマ人がフェニキア人のことをポエニと呼んだのでした。

 

第1次ポエニ戦役(B.C. 264~241)

現イタリアの長靴の先にある島シチリア島をめぐって、

①ティチーノ②トレッビア③トランジメーノ④カンネ

とイタリア内で会戦を行い、ローマはカルタゴに完敗。

カルタゴの名将ハンニバルがスペインからアルプス山脈を越えて

イタリア内に入る様は特に印象に残りました。

 

第2次ポエニ戦役(B.C. 218~201)

⑤ベクラ⑥メタウロ⑦イリパ⑧ザマ

若きローマの司令官スキピオの登場で、ローマはカルタゴに勝利。

スキピオピノキオと名前が似ていて覚えています(^^ゞ

(その程度の記憶(笑))

ちなみに表紙の顔が指輪に彫られたスキピオです。

 

第3次ポエニ戦役(B.C. 149~146)

カルタゴが滅亡し、ローマは地中海世界覇権国家となった。

 

世界史の教科書ではだいたい5行程度に要約されるこの戦争。

こんなに詳しく知ったのは初めてでした。

この巻もおもしろかったです。

 

作者の塩野氏は、ローマの歴史や物語ではなくローマ人の所行を

書きたかったと言われています。

この連作の通し表題を、私は『ローマ人の物語』とした。だが、

日本語の表題のラテン語訳には、歴史とか物語とかをダイレクトに

意味する、ヒストリアもメモリアも使いたくなかった。

所詮は同じ意味ではあるのだが、ジェスタエという言葉を使った。

RES GESTAE POPULI ROMANI「レス・ジェスタエ・ポプリ・ロマーニ」

とは、直訳すれば、「ローマ人の諸々の所行」である。

いかなる思想でもいかなる倫理道徳でも裁くことなしに、

無常であることを宿命づけられた人間の所行を追っていきたいのだ。

ローマ人の物語Ⅱ」“読者へ”より

 

ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかった

ところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならない

とは考えないところであった。

ローマ人の物語Ⅱ」“第一次ポエニ戦役後”より

 土木事業はエトルリア人に、通商はギリシア人に、とそれぞれ

得意な分野をまかせる統治をしたのでした。

 

ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目した、

最初の民族ではなかったかと思う。

インフラストラクチャーの整備が生産性の向上につながることは、

現代人ならば知っている。そして、生産性の向上が、生活水準の

向上につながっていくことも。

ローマ人の物語Ⅱ」“第一次ポエニ戦役後”より

ローマが敷設した街道は現代の高速道路網のようで、今もイタリアの

街に残っている。

 

高齢者だから、頑固なのではない。並の人ならば肉体の衰えが精神の

動脈硬化現象につながるかもしれないが、優れた業績あげた高齢者に

あらわれる、頑固さはちがう。それは優れた業績をあげたことによって

彼らが成功者になったことによる。年齢が、頑固にするのではない。

成功が、頑固にする。

ローマ人の物語Ⅱ」“第二次ポエニ戦役終期”より

「年寄りは頑固や」と親を見て思っていた。

そのうち自分も年寄りに近づいてきた。

精神の動脈硬化を起こさないようにしなくては。 

 

優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの

人間ではない。率いられていく人々に、自分たちがいなくては、

と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず

相互関係である。一方的関係では、持続は望めない。

ローマ人の物語Ⅱ」“第二次ポエニ戦役終期”より

これもなかなか深いです。

名将だったハンニバルも年をとってだんだん気弱になる。

ハンニバルに長年ついてきた部下が「自分たちが支えなければ」

と思うのです。

 

(略)この穏やかな帝国主義路線にも、弱点はある。

「パトローネス」(註:保護するもの)と「クリエンテス」

(註:保護されるもの)の双方ともが、同じ視点に立たなければ

成り立たなくなるという弱点である。つまり次のようになると

成り立たない。

パトローネスは言う。政治的外交的軍事的自由は制限される

だろうが、秩序と安全は保証する。

クリエンテスは反論する。自由か、しからずんば、死か。

人類は、スキピオの時代から二千二百年も過ぎていながら、

いまだにこの両者の考えの正否に結論が出せないでいる。

ローマ人の物語Ⅱ」“ポエニ戦役その後”より

長い引用になりました。<(_ _)>

これは世界史の永遠の命題であるのでしょう。

現在も続く内戦やクーデターや違法統治がそれをあらわしていると

思います。